5-4
夏の陽射しが照り付ける。
駅から競技場のある総合公園までの道を歩きながら、一年生の時も同じ道を通ったことを思い出す。あの時は陸上部の部員として歩いた。未だ慣れない高校生の大会に緊張していたのだろう、暑かったことなどまるで覚えていない。一方、今の僕は汗を拭き拭き、時折水を飲む余裕がある。何もかも、あの頃とは変わってしまったのだ。
木々の茂る園内を進んでいくと、見覚えのある競技場が森に不時着したUFOのような佇まいで現れた。
スタンドに出るなり、パン、という破裂音が轟いた。眼下を、短距離走の選手たちが駆け抜ける。僕はグラウンドを見回し、高跳びが行われる場所を確認した。それから、空いている席を探して腰を下ろした。スタンドに人は疎らで、空席を探すほどもなかったけど。
観客席のすぐ前のトラックで行われている100m走には、うちの学校のユニフォームを着た選手の姿がいくつか見える。けれど、知っているのは彼らの恰好だけで、彼らが誰であるかは僕にはわからない。向こうだって僕の存在は知っているかもしれないけど、顔までは知らない筈だ。かつての同級生は、フィールドにもスタンドにも見当たらない。
やがて、走り高跳びの参加者を募るアナウンスが流れた。あちこちから選手が集まって来る中に、佐々木の背中も見えた。
走り高跳びの参加選手は十三人。うちの学校からは三人出ていて、佐々木が唯一の三年生らしい。時折見える横顔は、真っ直ぐにバーの方を見つめている。彼女の眼には「棒」ではなく「壁」として映っているのだろう。
競技は1m35から始まった。
下級生や他校の選手が跳ぶ中で、佐々木はこの回をパスした。続く1m40、43も同様で、ようやく跳んだ1m49の時点では、既に選手の数は半分ほどに減っていた。
僕も専門外なので細かいところまでは知らないけど、「走り高跳びは駆け引きが重要」だと佐々木が以前言っていた。もちろん、競うのは跳び越えたバーの高さだ。どの高さから始めるかは選手の自由で、同じ高さで三回続けて失敗すると失格になる。
肝要なのはパスが認められている点で、同記録の選手が複数いる場合は試技数の少ない方が上位になる。例えば、同じ高さで二人の選手が残った場合、Aの選手は一回目で成功、Bの選手は一回目で失敗し二回目で成功となったら、Aの方が上位に来るのだ。Bは、一回目の試技で失敗した時点でこの高さをパスすることも出来る。そうした場合、もし次の高さでAが一回目の試技で失敗、Bが一回目で成功すれば、Bの逆転となる。
「そんな色々なことを考えながら、よく身体が動くね」
話を聞いた時、そんなことを言った覚えがある。
すると佐々木は涼しい顔で言った。
「考えているからこそ、身体が動くのよ。向田だって1500mもあったら、走りながら色々考えるでしょ?」
「自分がどれだけ走ったか忘れないようにするので精一杯だよ」
あながち冗談でもなかったけど、彼女は冗談と取ったらしく、肩をすぼめた。
その両肩が、赤いマットに沈む。
バーの高さは1m55。この時点で残っているのは三人。佐々木とうちの下級生と、他校の選手が一人だ。
成功した佐々木に続いて、下級生が二巡目となった試技を行う。失敗。残る他校の一人は成功した。三度目の試技。下級生はバーと一緒にマットへ落ちた。佐々木は、肩を落とす後輩に声を掛けることなく立っている。
バーが1m58に引き上げられる。僕の知る佐々木の自己記録と同じ高さだ。
一回目。他校の選手は成功。続く佐々木が初めてバーに引っ掛かった。ここで彼女の順位は二位となる。
二回目を跳ぶかパスするか。ここが走り高跳び特有の駆け引きが必要となる場面なのだろう。順位のことを考えると、佐々木は二回目の試技をパスし、次の高さで一度目での成功に賭けるのが得策だ。相手が一度失敗すれば、また一位に返り咲くことが出来る。
だけど、彼女はその道を選ばない。二回目の試技に臨む佐々木の頭には、順位に対する拘りなんてないのだ。
助走し、地面を踏み切った佐々木は、素人目にもわかる綺麗なクリアランスでバーを跳び越えた。僕は小さく拳を握った。でも、マットから起き上がった佐々木はごく当たり前のように淡々と定位置に戻った。彼女には、次に越えるべき「壁」しか見えていないみたいだ。
1m61。佐々木が越えたがっていた「壁」の高さ。
マーカーを二つ置いて、スタート位置に立つ。バーを見つめたまま、呼吸を整える。彼女に許された時間は一分半。それが過ぎるまでに、走り出さなければならない。
大きく息を吸うのが見えた。
次の瞬間、佐々木は掛け出した。
彼女は右足で踏み切るから、バーに対しては左へ向かうことになる。
助走の後半、マーカーに沿って曲がる部分でリズムを上げていく。心なしか身体の位置が低くなったかと思ったら、彼女が右の足で地面を強く踏みつけた。
跳び上がる。いや、飛び上がる。
佐々木は本当に飛んでいた。重力から何から、全てのことから解放されたと言わんばかりの、軽やかな跳躍だ。
遠巻きには、背中がバーを擦りそうに見える。それでも佐々木の背面跳びは上弦の月のような弧を描き、風に棚引く絹のような滑らかさで肩、背中、腰と、順当にバーの向こう側へ流れていく。
彼女は、「壁」を超えた。
マットから起き上がる佐々木は、呼吸することをようやく思い出したような顔をしていた。相好を崩すことも、ガッツポーズを作ったりもしない。喜びより手前に、別の感情があるみたいだ。
未だ現実が信じられないといった表情が、不意にこちらを向いた。僕には逃げる間もなかった。フィールドからは見えていないことを祈ったけど、佐々木の顔は、しばらくこちらから離れなかった。僕はどうすることも出来ず、その場に留まり、そのままの姿勢で彼女を見つめ返した。
佐々木の口元が、微かに綻んだような気がした。
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