5-3

 稲見さんが一晩で組み上げた囮は、順調に稼働し始めた。一見するといつまでもOMOKAGEを騙していられそうだったけど、稲見さん曰く「ライオンに大きな肉の塊を上げているようなものです。食べ終わったら、今度はこちらを狙ってきます」とのこと。やはり急場しのぎの物らしく、残された時間があまりないことに変わりはなかった。

 少なくとも、相手が退場する可能性が潰えた以上は、戦う準備をするしかない。

 まずは、まともに走れるようになることが急務だった。

 初めは元々行っていたウォーキングのペースを上げた。少し息が弾む程度の速さを維持したまま、いつものコースを巡る。その気になれば、ある程度の距離は走れたろうけど、前みたいに転んでしまっては意味がない。身体を「走り切ること」に慣れさせる必要があった。

 折悪く、梅雨が自分の役割を思い出したように雨の日も多かった。おまけに期末テストの時期とも重なった。けれど、どんなことがあってもトレーニングは欠かさなかった。一度立ち止まってしまったら、もう二度と走り出せなくなる。そう、自分に言い聞かせた。

 前へ。

 前へ。

 とにかく前へ。

 進むしかない。それ以外に、僕がとるべき行動はなかった。

 そんな風に日々を送るうちに、雨の合間に覗く陽射しが眩しさを増した。気付けば蝉も鳴き出していた。

 関東に例年より少し早い梅雨明けが発表される頃には、人並み程度に1500mを走り切れるようになっていた。幸いにも身体が走り方を覚えていた点も去ることながら、毎日学校終わりの練習に付き合ってくれた喜多君や稲見さんのお陰であることは間違いない。

 だけど、喜ぶのはまだ早い。僕はようやく「スタート地点に立つ資格」を得たに過ぎないのだ。

 記録は、事故前の自分に遠く及ばない。周回遅れとはいかないまでも、半周差はつきそうだ。この差を縮めて、その上追い抜かなければならない。道のりは、愕然とするほど長かった。

 朝は前より二時間早く起きて、走りに出掛ける。学校が終わると、市営の運動公園に移る。喜多君が伴走してくれたり、稲見さんがタイムを計ってくれたりする中で園内のジョギングコースを回る。夕飯の後も走りに出る。誰の眼にも無理をしているのは明らかだ。母さんには何度も止められたし、喜多君と稲見さんからだって少しは休むように言われた。だけど、膝に手を突いている暇はなかった。

 怖くないわけはない。走りながら、こうしている間にもOMOKAGEが囮に気付いたら、という思いは常に頭から離れなかった。

 また、負けた時のことは考えても、負けた後のことは考えないようにしている。というより、想像がつかないのだ。家を出て、一人で暮らしている自分の姿が、妄想の域を出ない。これが良いことなのか、悪い傾向なのかもわからない。

 上手く想像出来ないのはもしかすると、負けた後に存在する僕などいないからなのかもしれない。


 期末テストが終わると、今度は三者面談が始まった。

 少しでも多くの時間を練習に充てたい身としては煩わしいことこの上なかったけど、サボるわけにもいかない。幸い、一日に五コマ設定されたうちの二コマ目だったから、どうにか自分の中で折り合いがつけられた。

 順番が来て、母さんと一緒に教室へ入る。担任が母さんにぎこちない挨拶をする。緊張しているらしい。誰の親に対してもそうなのか、それとも僕の親だからか。

 窓際に並んだ机に二対一で向かい合った。「一」の方である担任が、一学期の僕について母さんに報告する。向田君は中間・期末共に成績がよろしくて、お友達とも仲良くされてます云々。上澄みだけすくいとられた自分の評価はあまりに退屈で、僕の意識は程なくして教室の外へと出ていった。

 三階の窓からは、校庭が見下ろせた。サッカー部やラグビー部が練習をする端で、陸上部員が細々と固まっていた。

 六月に行われた地区大会の結果は、風の噂で聞いていた。三年生が抜けてしまった部は、急にこぢんまりしたように見える。サッカー一チーム分どころか、バレーボールのチームすら組めるか怪しいぐらいだ。

 その中に、佐々木の姿があった。

 彼女は下級生から離れた所で一人、高跳びの練習をしていた。引退したOGが運動不足を解消しに来ている、というのではなさそうだ。そこに気軽さは一切なく、現役の時と変わらぬ真剣さで地面を蹴り、身体を捻り、バーを落としていた。

 佐々木が地区大会で敗退したと聞いた時、少し信じられない気がした。彼女の持つ自己記録を見れば、県大会ぐらいは固いと思っていたからだ。

 けど、大会のホームページで各選手の記録を見て納得がいった。

 佐々木の記録は、全て『無効』だった。

「ユキちゃん」

 母さんが僕の腕を突っついた。

「駄目じゃないの、ボーっとしてちゃ」

「すみません」

 担任に言ってから、他人の前で「ユキちゃん」と呼ばれたことに気付いて顔が熱くなる。

 それでも、母さんに対する非難の気持ちは薄かった。僕の頭は、何度もバーを飛び越えようとする佐々木の姿で満たされていた。

 彼女が七月下旬に開かれる記録会に出ることを知ったのは、それからすぐのことだ。

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