5-2
終電の時間はとうに過ぎていた。だけど僕は、歩いてでも帰るつもりだった。家には何の連絡もしていないし、家に帰って確かめたいこともあった。
「何だよ、泊まってけばいいじゃねーか」
「いや、今日はどうしても帰りたいんだ」
すると喜多君は、何か思いついたようにポケットへ手を入れた。取り出されたのは、折り畳んだ一万円札だった。
「じゃあさ、タクシーで帰れよ。金ならあるし」
喜多君の御母さんが渡してくれたお金だ。結局、何にも使わなかった。
「稲見も一緒に乗ってけ」
「え?」
稲見さんが身を竦ませる。
「ユッキー帰ったら俺と二人きりになっちまうぞ」
喜多君が口の端を釣り上げ、稲見さんに迫る。稲見さんは小動物みたいに震えている。
稲見さんの一撃が喜多君のお腹に入って、この件は決着がついた。僕がようやく喜多君の捨て身の気遣いに気が付いたのは、それからしばらく経った後、タクシーの後部座席に二人きりになってからのことだった。
僕たちは真ん中に一人分のスペースを空け、それぞれ端に座っていた。外の明かりを除けば、車内は暗い。それでも、反対側に座る稲見さんが身を縮ませているのはわかった。
何も言わないでいると、こっちの息が詰まりそうになる。けれど、何を言えば良いのだろう? 何を言っても、嫌味や皮肉として伝わってしまいそうな気がする。少なくとも、そうせずに済む技術が僕にはない。
運転手がラジオでも点けていてくれれば良かったのだけど、仕事に真面目な人なのか規則なのか、前方からは時折無線連絡の音が聞こえてくるだけだ。
代わりに、稲見さんの息遣いはよく聞こえた。聞こえ過ぎるぐらいだ。他に音がないせいもある。けれど、彼女の呼吸は時間を追うごとにどんどん荒くなっていた。何かを決意し、それが崩れ、また立て直す。傍目にもわかるこの繰り返しが、徐々に異常さを帯びていき、ついには肩が上下するほどの変調を彼女に及ぼしていた。
声を掛けずにはいられなかった。
「あの、稲見さん、大丈夫?」
暗さ越しにも、稲見さんの真っ青な顔が見えるようだった。
「すみません……ちょっと、駄目かも……」
僕は運転手に言って車を停めてもらった。路肩に停車するや、稲見さんは転げるように外へ出ていった。歩道の植え込みの向こうから、苦しそうな声、というより音が聞こえてきた。
心配そうに振り返る運転手に断って、僕も車を降りた。歩道に上がってみると、植え込みの陰に跪く小さな背中があった。少し迷ったけど、僕はその背中を摩ることにした。
ハンカチを差し出すと、餌を食む兎のようにそっと彼女は受け取った。
やがて、くぐもった声が聞こえてきた。
「……ごめんなさい」
「大丈夫だよ。水、買って来ようか?」
稲見さんはえづく。発作の波が過ぎ去った後で、小さく言う。
「ごめんなさい……叩いて、ひどいこと言ったのに……上手く謝れないで……」
背中を摩っていた手を止める。稲見さんは震えていた。
これは酷いことかもしれないけど、佐々木のことが頭に浮かんだ。
彼女も同じように苦しんでいるんじゃないか、とふと思った。僕の思い上がりだったらそれで良い。彼女がとうに事故ことなんか吹っ切っていて何とも思っていないのなら、むしろその方が望ましい。
だけど、そうでないのなら。
もし彼女が、出すべき言葉も吐き出せず、一人地べたに跪いて苦しんでいるのなら。
自転車の籠に刺さった、花束を思い出す。
あれは、僕に手向けた物だったのだろうか。
佐々木が嫌がらせであんなことをしたとは、どうしても思えない。彼女には彼女なりの考えがあったのではないか。
いや、きっとあったに違いない。だけど今の僕では、その答えに手が届かない。
「いいんだ」
僕は言った。今は、それぐらいしか出来ることがない。
「僕は平気だから、気にしないで」
葉っぱの間から漏れてくるハザードランプの明滅に、稲見さんのすすり泣く声が重なって来た。彼女の背中は、もう震えるのを止めていた。
「ハンカチ、必ず洗って返します」
窓の向こうで稲見さんが言った。街灯に照らされた彼女の顔は泪やら何やらでぐしゃぐしゃだった。
「いつでもいいよ。それより、ホントに一緒に行かなくて平気?」
「平気です。親にはちゃんと説明しますから。それに、来てもらった方が却って危険です。向田君が」
「そ、そう」
稲見さんの物言いに、お腹の底に冷たい物を感じた。彼女がマンションのエントランスへ入っていくのを確認して、僕は車を出してもらった。
家に着くと、玄関の明かりが点いていた。ドアを開けると、母さんたちが飛んできた。
「心配したのよ、携帯も繋がらないで。もう少しで警察に連絡するところだったんだから」
「ごめん」
僕は言った。素直に謝ったつもりだけれど、意識はやっぱりリビングに向いていた。
スリッパを突っかけ、足早に廊下を進む。駆け出しそうになる足と気持ちを抑えるのがやっとだった。
リビングへ入る。右手、キッチンの方を向く。暗いカウンターがあり、冷蔵庫があり、食器棚が見える。手前にはダイニングテーブル。更に視線を右へ。壁際へ向ける。僕が眠りに就く前には何もなかった壁際に。
そこには、モノリスが朝と変わらぬ姿で立っていた。
さしてショックを受けないのは、その光景を既に思い描いていたからだ。半透明のスライドに、実際の景色が重なったに過ぎない。今朝話したからといって、今日中に機械がなくなるという話でもなかった筈だ。だから平気だ。
ただ、出来ればコンセントぐらいは抜いておいてほしかった。起動した痕跡を、せめて隠す努力をしてほしかった。
「ユキちゃん、何か食べる?」
僕が何もかも知っていることなど知りもしない母さんが言う。
「いや、いいよ」
僕はモノリスを見上げた。別に他意はなかったけど、そんな仕草を自分なりに受け取ったらしい母さんは、釈明するような調子で言った。
「その子ね」
その子。
「メーカーに電話したら、回収まで時間が掛かるんですって。『すぐには無理だ』っていわれちゃったの」
「そう」
嬉しそうな響きを感じ取ってしまうのは、僕に原因があるのだろうか。
「それで、九月になるまでは家に置いておいて欲しいって言うから――」
不法にレンタルされたとわかっている機材を、そのままにしておく企業がこの世にはどれだけあるのだろう。わからない。ただでさえ曰くつきとして世間で騒がれているという物を、そう濫りに放置するのだろうか。わからない。そもそも母さんは、回収の依頼をしたのだろうか。
考えたくもない。
「だからね、ユキちゃん。あまりいい気持ちはしないと思うけど、もう少しだけ――」
「今日はもう寝るよ。明日、早いんだ」
僕は蓋をするように言った。
次の日から、トレーニングが始まった。
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