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 座卓の上に、チラシを裏返した白紙が置かれた。

「今、向田君の身に起きていることを整理してみましょう」

 目を真っ赤に腫れさせた稲見さんが言った。彼女は白紙に『OMOKAGE』と『向田君』という横書きの文字を縦に少し離して並べる。

「まず、向田君の家にはOMOKAGEという機械がある。これは家族を亡くした人の心の穴を埋めるために開発されたものです。本来ならば、死亡証明書がなければレンタルされない筈ですけど、なぜか向田君の家にはこれがある」

『OMOKAGE』が二重丸で囲われた。

 僕は頷く。

「たぶん、義父のツテで頼んだんだ」

「これはOMOKAGEにとって、本来想定されていなかった運用方法です。恐らく開発段階から、誰も考えもしなかったんだと思います。だから当然、エラーが起きた時の対処プログラムも用意されていない」

『OMOKAGE』から『向田君』へ矢印が伸びる。

「死んだ当人が目の前に現れた時、どう振る舞えば良いか〈彼〉は知らない、と?」

「そうです」

 矢印の脇に『エラー』と書き添えられる。

「今のOMOKAGEにとって向田君は、どうすることも出来ないエラーなんです。普通なら機能を停止したり、何らかの通知がセンターへ行く筈ですが、予期されていなかったエラーは綿密に組まれたプログラムの一点に影響を及ぼして、そこから次々に色んな箇所を狂わせていったんです。今ではもう、手の付けられないほどに色々なものが変わってしまっているのでしょう」

 稲見さんは『OMOKAGE』の周りに×印をいくつも書き込んでいく。

 僕はドミノ倒しを思い浮かべる。扇状に並んだドミノの一つを倒すと、徐々に倒れる数が増えていく。一つ分の力で、最終的には何百、何千ものドミノを倒すこととなる。

「今のOMOKAGEは、暴走状態にある……」

 僕の言葉に稲見さんが頷いた。

「向田君の話を聞く限りは、そう思います。向田君の存在を排除しようとする傾向が異常です」

 いくつもの×印が書かれた『OMOKAGE』は、燃えているように見える。炎を纏った獣が僕に襲い掛かっている図が、紙の上で展開されている。

 喜多君が言った。

「でもよ、暴走してるにしてはいやに冷静じゃねえか? 壊れた機械なら、誰かれ構わず襲い掛かったりするもんだろ? それをユッキーだけに的を絞るって、何か気味悪いな」

「AI、というよりコンピュータを含め、全ての機械は何らかの目的を持って動いているものです。車は移動するためにありますし、電話は遠くの人と話すためにある。それはAIも同じで、例えばOMOKAGEならば『家族を亡くした人を慰める』という目的があります。これは言い方を変えると『亡くなった人の家族を守ること』です。今の場合で言えば、向田君のお母さんを守ること。これを果たすためだけに、AIは動いているんです」

 稲見さんは『OMOKAGE』の横に『「お母さんを守る」』と書く。

「……ゾンビがただ歩き回るみたいに」

 僕は呟く。

「ユッキーの母ちゃんを守るためだったら何でもするってことか」

「善悪の判断は、もうついていないでしょう。むしろ、純粋な善意の塊とも言えます。だからこそ、その向かい側に立つ人にとっては完全な『悪』でもあるんです」

「皮肉な話だな。ユッキーだって向いてる方向は同じだってのに」

「元はといえば、僕の人格だからね」

 言ってから気付く。だとすると、僕だってあんな風に全力で誰かを傷つけたり、排除しようとする心を持っているのではないか? 僕だっていつかは、同じことを誰かにしてしまう時が来るのではないか?。

 誰も手を動かしていないのに、『OMOKAGE』と『向田君』が二重線で結ばれる。

 稲見さんが言った。

「OMOKAGEはあくまで、向田君の言いそうなことを言うだけの人格を作り出しているに過ぎません。一から十まで本人と同じ、というわけではないんです」

 幻の中の二重線が黒く塗りつぶされた。

「それに、どんなに似ていたところで、所詮は過去の寄せ集めです。だから今の向田君とは全然違います」

「そうだぜ。あいつは俺らのこと知らねえけど、お前は俺らのこと知ってる。それだけでもこっちが断然有利だろ」

 塗り潰された線は、滲んで消えた。跡形もなく。

「よく『断然』なんて言い切れますね」

 図々しい、と稲見さんは肩を竦める。

「何だよ、そこは自信持とうぜ」

 そんな喜多君を他所に、稲見さんは改めて紙の『エラー』を円で囲んだ。

「ここからが本題です。わたしたちがOMOKAGEに対抗する時、鍵となるのがこの、OMOKAGEが向田君に向けた『エラー』という考え方なんです」

 更にそこを指した矢印が書き込まれる。

「今、OMOKAGEは、向田君というエラーを排除しようと躍起になっています。元々方法なんてものがないから、手探りで色んなことを試すしかありません。その結果が動物園でのことだったり、今日のことだったりするんです。そこで――」

 矢印の脇に『解決法』と書き足された。

「こちらから、エラーの解決法をOMOKAGEに提示します」

「おい、それってユッキーの倒し方を教えてやるってことだろ? マズいじゃねえか」

「でも、その方法で僕が倒されなければ良い」

「その通りです」

 稲見さんが頷く。『解決法』の下の括弧書きで『対決』と書かれる。

「『解決法』という名目で勝負を持ちかけて、OMOKAGEを敗北させます。今のところOMOKAGEは一方的な攻撃を仕掛けるばかりで、勝手に向田君に勝利したと思い込んでいる状態です。それを同じ土俵に上がらせて、向田君の力で敗北を思い知らせる。向田君というエラーを『克服不能』と判断させるんです」

「それでホントに停まるのかよ」

「絶対とは言い切れません。けど、かなり高い確率でAIがアイデンティティ・クライシスを起こす筈です」

「ア、アイデ……?」

「滅茶苦茶に積み上げた積み木は、少し突いただけで簡単に崩れる、ということだね?」

 僕は言った。

「これが、わたしたちに出来得る一番簡単な方法です」

「とにかく、AIに勝負を仕掛けて勝てばいいんだな?」

 何段か階段を飛ばしたような調子で喜多君が言った。

「問題はそこです。必ず向田君が勝てるものにしなければ」

「ユッキー、頭良いからな。クイズとか?」

「いくら頭が良くたって、人間が頭脳を使った勝負でコンピュータに勝てるわけがありません」

「とすると運動か。相撲とか?」

 相撲なんてとったことがない。

「相手に肉体がない以上、誘いに乗って来る可能性は低くなります」

「じゃあ、何だ? 花札でもするか?」

「運の要素が強過ぎます。確実に勝てるものじゃないと」

「もうねえよ、お手上げだ。つーか、お前らもアイデア出せよな」

「わかってますけど、条件が限られているから難しいんです。喜多君みたいに思ったことがそのまま口から出てくる人と一緒にしないでください」

「人をバカみたいに言うな!」

「みたいじゃありません」

 二人のやり取りを聞きながら、僕は棚の上に置かれた時計を見ていた。二十三時二分。終電は何時だっただろう? たぶん、あと三十分はいられる筈だけど。走ればギリギリ間に合うだろうか? ここから駅まで、走ってどれくらいだろう?

 走る。

「マラソン……」

 僕は呟いた。遅れて、自分の口にしたことに気が付いた。二人が僕の方を向いていた。

「マラソンはどうだろう?」

 頭脳系の勝負ではない。肉体を使いはするものの、勝敗は記録、つまりデータで決まる。運の要素は低い。というより、全てがこちらの実力に掛かっている。

 何より、僕の得意分野だ。

 唯一、誰かとの闘いに用いることの出来る武器だ。

「それだったら、OMOKAGEも乗って来るかもしれません。人格を構成してるのは、陸上をやっていた時の向田君のデータですから」

 稲見さんが言った。

「なるほどな。昔の自分より速く走ればいいんだろ? 簡単だな」

「簡単、ではないかもしれないけど」

 最後に僕が自己記録を更新したのは事故の直前、一年生の秋だ。おそらく〈彼〉は、僕が最も速く走れた時の記録を持っている。片や僕は、事故に遭って目覚めて以来、ずっと走っていない。走るどころか、ようやくまともに歩けるようになったばかりだ。

 勝ち目なんてまるでないように思える。

 だけど、やるしかない。

「時間はどれぐらいあるんだろう?」

 僕は稲見さんに尋ねた。

デコイを作って、しばらくはAIを騙すことは出来ます。けど、それも持って二ヶ月……或いはもっと短いかもしれません」

 二ヶ月以内に、一年半分のブランクを埋める。目の前を壁に塞がれた気分になる。

「それと、一つ問題が……」

 稲見さんは言い淀む。

「いいよ、続けて」

「たぶんチャンスは一度きりです。もしこの闘いで負ければ、AIが学習してしまい、もう二度と同じ手は使えなくなります」

「無茶苦茶シビアじゃねえか」

 喜多君が呻くように言った。

 それでも、やるしかない。進むしかない。

 僕は顔を上げ、二人を見渡した。目が合うと、二人とも力強く頷いた。喉に何かを詰め込まれたように苦しくなる。でも不思議と、嫌な気持ちはしなかった。

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