4-7
喜多君のアパートに着いたのは、前に来た時と同じぐらいの時間だった。
カンカンカンと鉄を踏み鳴らす音が聞こえたかと思えば、やはり前に来た時に擦れ違ったのと同じ水商売風の女性が階段を下りてきた。前と違うのは、彼女が足を止め、「おかえり」と言ったことだった。
「珍しいねえ。あんたが友達連れてくるなんて」
彼女の言葉の先にいたのは喜多君だった。
「うるせえな。また遅刻するぞ」
「はいはい」
と言いながら、女性は稲見さんと僕の方へ顔を寄せてきた。
「こいつ、バカでガサツだけど仲良くしてやってね」
「どっちも遺伝だ、バカ」
眉間に皺を刻む喜多君に「みんなで何か食べな」と財布から取り出したお札を握らせ、女性は去っていった。前と同じ香水のにおいがいつまでも残っていた。
「お母さんと仲良いんですね」
「どこがだよ」
そう言って喜多君は、お母さんと同じ音を立てて階段を上って行った。
促されるまま玄関を潜り、居間へ通された。全く無意識のうちに、前と同じ位置取りで座卓の前に腰を下ろした。ただ今回は、話題の中心が岸のあちら側からこちら側に移っていた。
喜多君が淹れてくれたコーヒーが来たところで、僕はこれまで己の身に起こったことを話し出した。病院で目を覚ましたこと。一年も眠っていたと知ったこと。家に帰ったらOMOKAGEの機械があったこと。母さんが夜、僕の姿をしたホログラムと会話しているのを見たこと。OMOKAGEのAIがすっかり僕に成り代わっているつもりで、僕を邪魔に思っていること。上野動物園でのこと。その夜の出来事――。
今まで誰にも言わず、一人で処理しようと胸の中に溜めてきたことを全部吐き出した。唯一つ、佐々木に関することだけは除いて。それだけはやはり、自分の胸だけに留めておくべきだと思った。
一通り喋り終えた時にはもう、コーヒーの湯気が消えていた。カップに口を付けてみると、ぬるささえ消えかかった液体が唇に触れた。
「――とまあ、こういうわけなんだ」
僕が話を締めても、二人は黙っていた。無理もない。実際に口に出してみて、いくらか客観的に自分を取り巻く状況を見渡せるようになった気がした。そうなってみて改めて感じるのが、我が家の異常さだ。本来は死者の代わりとして使うべき機械を、禁を犯して手に入れ使っている。母親はそれに依存し、機械は機械で自分の元となる存在に牙を剥く。傍から見ると、病的でグロテスクな構図がより際立って見える。
口の中が苦くなったのは、たぶんコーヒーのせいだけじゃない。僕は沈黙の中で唇を噛んだ。やっぱり、話すべきではなかったのかもしれない。こんな話、聞かされた方には重荷にしかならないのだから。
「ごめん、変な話聞かせちゃって」
僕は腰を上げかけた。すると喜多君が言った。
「謝る理由が違うだろ」
尖った眼差しがこちらを向いていた。どうして彼が怒っているのか、理解出来なかった。気付けば稲見さんも怒ったような顔をしている。
「えっと……」
他に彼らを怒らせる理由を探る。でも、どれだけ探しても「嫌な話を聞かせた」こと以外に思い当たる節が見当たらない。
「で、どうするんだ?」
どうするんだ?
「どうすりゃそいつを止められるんだ? ぶっ壊すのか?」
「いや、何を言って――」
僕の言葉を遮るように、稲見さんがノート型パソコンを座卓に置いた。彼女はキーボードを叩き始める。
「ただ単に機械を壊すだけじゃ何の解決にもなりません。AI自身を停止させないと」
「稲見さん?」
彼女はエンターキーを弾くように二度叩いた。
「ソースはネットに転がっているので、対抗策は考えられそうです」
「よし、決まりだな」
「ちょっと待って」
僕は二人の間に割って入る。
「どうにかしてくれようって気持ちは嬉しいけど、これは僕の家の問題だから。二人を巻き込むわけにはいかないんだ」
「だったら何で話した」
喜多君の刺すような眼が飛んできた。
「実際、二人を危険な目に遭わせそうになったから……これ以上僕に関わると危険だって伝えたかったんだ」
「一人になってどうするつもりですか? 何か手立てはあるんですか? AIの弱点がわかるんですか? 相手がどういう仕組みで動いているのかわかりますか?」
稲見さんが言った。捲し立てられる全ての問いに首を振らざるを得ない。彼女の言わんとするところはわかる。僕一人では、到底〈彼〉に太刀打ち出来ない。出来る筈もない。知識を持った人の手を借りられたら。助けてくれるという好意を素直に受け入れられたら。だけど、そうするわけにはいかないのだ。たまたま身近にいたというだけで彼らを、彼らと関係のない者の勝手で始まった騒動に巻き込むわけにいけない。
それにこれは、僕が全てを抱えれば済むことなのだ。
「――AIの言い成りになる気ですか?」
不意打ちのような一言が、僕の心臓を刺した。
「言い成りって、消えるってことかよ」
確かに僕は、〈僕〉に言われた。幽霊は幽霊らしく消えろ、と。
「お前、まさか……」
「死にはしないよ」
僕は言った。
そう、死んだりはしない。だって僕は、もう死んでいるのだ。
「ただ、家を出ようと思ってる。それが一番の解決法なんだ」
「それじゃ何の解決にもなってねえだろ。ただ逃げただけじゃねえか」
「それで全てが丸く収まるなら、僕は構わない」
「『全て』じゃないじゃないですか」
「お前はどこにいるんだよ」
「いいんだ、僕は」
本当に。
「僕は一人でいるべきなんだ」
心の底からそう思う。
「僕がいると、周りの人が不幸になるから――」
紙風船を潰したような音が言葉を遮った。
初めは何が起きたかわからなかった。気付けば僕は、横を向いていた。頬に何か当たったと認識したのは、痛みが疼き出してからだった。
稲見さんが仁王立ちして、こちらを見下ろしている。目には泪。僕の右頬を打ったのはたぶん、いや十中八九、彼女の平手だ。僕は打たれた頬に手を添える。感覚がまるでなかった。
どうして、という言葉がぼんやり浮かぶ。どうして僕は叩かれたのだろう? どうして彼女は泪を浮かべているのだろう?
「嘘つき」
声が降って来る。
「わたしが同じこと言った時は『そんなことない』って元気づけたくせに。自分は一人で消えようとするなんて、そんなの嘘つきだ」
たしかに僕は、自分がいなくなるべきだと言った稲見さんに「違う」と言った。けど。
「それは、僕が本当に稲見さんに救われたと思ったからで、今回のこととは――」
「違わない! わたしだって救われた。喜多君だって!」
突然水を向けられた喜多君が、やっと我に返った様子で「お、おう」と頷く。
「人の気持ち何もわかってないくせに。勝手に決めて、なかったことにするな! バカ!」
そう言って稲見さんは、しゃくり泣きを始めた。何度も泪を拭った後、拭いきれなくなったのか踵を返してトイレへ駈け込んでいった。
クリーム色のドアが、壊れたのではないかという勢いで閉められる。喜多君と僕は、ドア越しに聞こえてくる嗚咽を黙って聞いた。とても一人で泣いているとは思えないほどの声だった。
やがて喜多君が沈黙を破った。
「あー、えーと……」
彼は頭を掻きながら、
「なんかスゲーな、あいつ」
僕は何も言わない。頷いたりもしない。それでも喜多君は、構わずに続ける。
「でもまあ、俺も同じ気持ちだったぜ。俺の場合はパーじゃなくてグーだけど」
僕は小さく頷いた。
「俺らも能天気だったとは思うけどよ、相談ぐらいしてくれても良かったんじゃねえかな」
「……ごめん」
「お前が俺の退学止めたみたいに、今度は俺がお前を止める。お前の問題は俺たちの問題でもあるんだ。お節介はお互い様だ」
僕は俯く。僕もどこかに駈け込めたら良いと思う。
「まだ、逃げ出すのは早い」
喜多君が言った。
いや、最初に言ったのは僕だ。
「――だろ?」
僕は顔を上げられないまま、頷いた。
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