4-6
トイレを出ると、〈僕〉の背中があった。何かを探すように店内を見回している。僕は携帯電話を握ったまま、〈彼〉を止める術を考える。けれど妙案は微塵も浮かばず、胸が悪戯に高鳴るばかりだった。
やがて〈僕〉が振り向いた。〈彼〉は僕の視線を絡め取ると、そのまま手近なボックス席へと誘った。
そこにはカップルと思しき茶髪の男女が座っていた。ドリンクバーで時間を潰しているらしく、ストローの袋が抜け殻のようにいくつもテーブルに転がっている。二人とも無言で、黙々と携帯電話をいじっている。
「何を」
する気だ、と僕は言いかけた。だけど言葉は声にはならなかった。羞恥心ももちろんある。けれども、画面の中の〈僕〉があまりに鮮やかな動きで男女の方へ近づいていくので声を掛ける暇がなかった。
〈彼〉は男の傍らに立つと、彼の手にした携帯電話に触れた。その瞬間、蒼白い光が電話機の所で爆ぜた。
ここまで来て、「あくまで画面の中での出来事」と片づけるほど僕も御目出度くはない。画面の外でも何かしらの事態が出来することは覚悟していた。案の定、それは起こった。男の方が「あれ?」と顔を顰めたのだ。
「ケータイ壊れた」
「うそー?」
女が顔を上げた。
「画面固まった」
「再起動してみれば?」
「ボタンが全然反応しねえんだよ」
僕は自分の携帯の画面を見る。〈僕〉はまだ、二人の席の傍らに立っている。
続いて〈彼〉は、女の携帯電話に手を伸ばした。指先が電話機に触れた瞬間、やはり同じように蒼白い光が見えた。
彼氏の電話が壊れた時よりも大きな声で女が言った。
「あたしも固まったんだけどー」
「マジかよ」
「何これサイアクなんだけど」
画面の中では〈僕〉がこちらを向いてほくそ笑む。僕が覚えている限り、そんな顔は人生で一度もしたことがない。
〈彼〉はカップルの席を離れて歩いていく。僕も、必死で携帯を復活させようと頑張っている二人の横を通り抜けて追いかける。
タブレットを操作しているサラリーマンがいた。〈僕〉がテーブル越しに身を乗り出し、タッチする。光が爆ぜる。画面の中でも外でも、同じ動きでサラリーマンがタブレットを指で叩きだす。怪訝な顔で端末を見回し始める。
その先の席では、女性店員が家族連れの注文を取っている。〈僕〉は速やかに近づいていき、彼女の手にしたタッチペン式の端末に触れる。蒼白い光。店員のペンが慌ただしく動く。やがて彼女は家族連れに頭を下げ、端末を交換しに走っていく。既に歩き出していた〈僕〉とぶつかったけど、その存在を感知することはない。
喜多君の呼ぶ声がした。だけど振り向いている余裕はない。画面の中の〈僕〉はレジカウンターに到達していた。
今まさに会計が行われているレジスターに触れる。何が起こるかは、もう確かめるまでもない。レジを打っていた店員は狼狽え、客は首を捻る。僕の手の中からは、笑い声が上がった。
『大変だなあ。全部君のせいだよ。出来れば僕だって、こんなことはしたくない。でも、君があまりにわからず屋なものだから、ちゃんと、目に見える形で、肌で感じられる形で教えてあげているんだよ』
僕の顔をした〈僕〉が笑う。悪魔が罠に嵌めた人間に向けるような、歪んだ笑みだ。
口の中が粘つく。それでも僕は、声を絞り出す。
「君は僕じゃない」
『君が僕じゃないんだ。いい加減、理解しなよ』
〈僕〉が言った。それから〈彼〉は、人差し指を親指と中指で挟んだ形の右手を挙げた。
パチン、と指が鳴る。何かが弾けるような、明瞭な音だった。次の瞬間、黒い布が落ちてきたみたいに店中が真っ暗になった。
闇の彼方此方から色々な種類の悲鳴が聞こえてくる。意識が少しずつ平静に近づいていくと、非常灯や携帯端末の画面の光がちらほらと目についた。僕の手の内にある携帯電話もまた、その一つだった。
『これでもまだわからないかな?』
電話機のスピーカーから、やけに鮮明な声がする。僕は画面に表示された矢印の方向へレンズを向ける。
〈僕〉の顔がすぐ傍にあった。
『もっと色々なことが出来るよ。例えば、外を走ってる自動車。エンジンを停止させて事故でも起こそうか。それとも、ハンドルを操作してこの店に突っ込ませるか』
子供の泣く声がした。店長らしき人物が、客を宥める声も聞こえる。
手の中で電話機が軋む。
「……僕にどうしろって言うんだ?」
『消えてくれ』
自分のと同じものとは思えないぐらい、冷たく余所余所しい声だった。
『幽霊は幽霊らしく消えるんだ。ただ、それだけだよ』
幽霊、と僕は口の中で呟く。
『君は去年の一月に、事故で死んだんだ』
鈴の音が聞こえた。
地面に転がるキーホルダー。僕は何の気なしに、それを追い掛ける。
車の少ない道だった。まさか、そんな時に限ってトラックが走って来るなんて夢にも思わないような。
車道へ出る。
耳を圧するクラクション。視界を支配するヘッドライトの光。
花束。
真新しい信号の足元に供えられた花束。
佐々木が自転車の籠に入れていた花束――。
「ユッキー、貸せ!」
手から携帯電話がもぎ取られた。白く光る画面の中に、店の外へ出ていこうとする後ろ姿を見た気がした。
「壊すだけじゃ駄目です。水に浸けて!」
すぐ隣で声がした。暗がりの中を、僕の携帯電話を持った人影が駆けていく。
程なくして、明かりが戻った。
恐怖に染まっていた店内のざわめきが、安堵に色を変えていく。方々で店員たちが、客に謝罪の言葉を述べ始める。
「どうにか間に合いましたね」
隣に立っていたのは稲見さんだった。
喜多君がグラスを片手に、ドリンクバーの方からやって来た。
「悪いな。ケータイ、こんな風になっちまった」
携帯電話をねじ込んだグラスには水が注がれていた。或いは、水の入ったグラスに携帯電話をねじ込んだのか。
入り口の向こうからは、車の急ブレーキなどは聞こえない。車が突っ込んで来そうな気配もない。レジは正常に動き始めたようだ。誰かがネジを巻き直したかのように、店内の時間が元の通り流れ出していた。そこで立ち回る人々の誰一人として、たった今起こったことの原因が僕にあるとは気付いていないようだった。
僕は、小さく首を振った。何に対してそうしたのかは、自分でもわからない。
「いきなり稲見がユッキーのケータイ壊せって言うからさ」
喜多君が弁明するように言った。
責める気持ちがないことを伝えたいけど、今の僕はその術を持っていない。
稲見さんが言った。
「携帯端末に侵入して、その位置情報から周りにある電子機器を破壊したりするウイルスです。向田君の様子がおかしかったので、すぐにわかりました」
「ユッキー、あれか? 変なサイトでも見たから――」
喜多君の冗談めかした言葉を最後まで聞く前に、僕は立っていられなくなって床にへたり込んだ。喜多君と稲見さんは飛びつくように寄ってきてくれた。
もう、限界だった。
巻き込む/巻き込まないといった選択肢は、僕には残されていないのだ。僕といる限り、二人にもいつ危害が及ぶかわからない。
僕は言った。
「二人に話しておかなければならないことがあるんだ」
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