4-5
「でもいいよなー、十八歳。堂々とAVコーナーにも入れるわけだろ?」
ストローで啜っていた紅茶を吹き出すほど初心ではないけど、僕は稲見さんの方を気にせずにはいられなかった。尤も、彼女は「オーディオビジュアル?」と首を捻っていたので安堵した。
「行かないよ、そんなとこ」
「あ、そうか。ユッキーはネット派か」
稲見さんがますます迷宮に嵌まり込んでいく。
「俺はやっぱ店の方が好きだな。暖簾を潜る時の緊張感。あのズラッと並んだパッケージ。視界を埋め尽くすほどの――」
「入ったことあるの?」
「そりゃあ、男の子だからな」
「あの、何の話ですか? どこに入るんですか?」
すると喜多君が不気味なほど穏やかな笑みを浮かべる。
「それはだね――」
僕が身を乗り出すのと同時に、ポケットの中で携帯電話が鳴動した。マナーモードを入れ忘れていたらしい。喜多君の言葉は止まった。とにかくこの場は助かった。
電話の着信だった。母さんからだ。夕飯は食べて帰るという連絡を、そういえばしていない。僕は二人に断って席を離れた。トイレの表示が目についたので、男子トイレの扉に身を滑り込ませる。
「もしもし?」
何も聞こえてこない。
一瞬、視界がぼやけた。同じことが前にもあった。
「もしもし?」
やはり、聞こえてくるのはホワイトノイズばかりだ。
僕は電話機を耳から外す。心臓が、喉のすぐ傍までせり上がってきているようだった。
画面はしかし、通常の「着信」のままだ。勝手にカメラが起動したり、そこに見たくもないような幻が映っていることはなかった。
「もしもし、母さん?」
ポケットに入れたまま通話ボタンが押されたことに気付いていないのかもしれない。むしろ、そちらの可能性の方がよほど現実的だ。気が抜けたら自然に声が大きくなった。
「聞こえないから切るよ。いいね?」
一拍待ったけど、応答はなかった。僕は通話を切った。
携帯電話を洗面台の端に置き、一息吐く。落ち着くんだ、と自分に言い聞かせる。あいつなわけはないんだ。あいつの電源は抜かれたままじゃないか。
目の前の大きな鏡には、疲れた顔の少年が映っている。あちらが労うような眼差しを向けてくるので、僕も同じ気持ちになった。逆のことも出来れば良いと思う。僕らは二人とも草臥れていた。
天井のスピーカーから流れるクラシックに、無機質な電子音が重なった。メッセージアプリの着信音だ。見れば、母さんからのメッセージが届いている。
画面のロックを外して開いてみると、相手の発言を示す白い吹き出しが浮かんだ。
そこに遅れて『見つけた。』の文字が現れた。
画面の彼方此方にブロックノイズが生じ始め、ついには画面そのものがブラックアウトした。かと思えば、心臓マッサージを受けた意識不明者が息を吹き返すように突然明るくなった。
白い光に包まれていた画面が、目が慣れていくように風景の像を結んでいく。浮かび上がってくる景色は、どこか見覚えのあるものだった。無理もない。そこに映し出されたのは、携帯電話の向こうに広がっているこの、ファミレスの男性用トイレの洗面台だった。
画面の右辺に向けて矢印が表示された。そんなことはしたくないのに、勝手に身体が反応してそちらへカメラを向けてしまう。
橙色の明かりの下に人影が立っていた。磨き上げられた壁や床に、一切の影を映さない人影が。
『久しぶりだね』
携帯電話から顔を上げても、そこには誰もいないし何もない。〈彼〉は画面の中だけの存在だ。それなのに僕は、口の中がカラカラに渇き、電話機を持った手を下ろせずにいる。意識を通して身体全体を支配されてしまっていた。
頭の中だけは自分の意思で動かして、〈彼〉が現れた原因を探る。落ち着くんだ、と己に言い聞かせる。あいつの電源は抜かれたままじゃないか。さっきと同じ言葉を引き出した筈なのに、そこに含まれる意味は真逆の方向を指していた。僕は望まずとも、示される答えに行き着いてしまう。
誰かがサーバーの電源を入れたのではないか?
思考は更にその先へ達する。
リビングでホログラムと対面する、母さんの後ろ姿が目に浮かんだ。
『幽霊でも見たような顔じゃないか』
〈僕〉が言った。
「死んでいるのは君の方だというのに」
何も言えずにいると、〈彼〉はこちらへやって来た。間抜けなことはわかっているけど、僕はその姿をカメラで追ってしまう。〈彼〉から眼を離すことの方が危険に思えてならなかった。
カメラの前を通り過ぎながら、〈彼〉は言う。
『まあ、いいさ。物分かりの悪い君に教えてあげよう。僕が君の言う「現実」に生きているということを。君が僕に何も出来ない幽霊だということを』
言葉の意味を何度反芻しても、何を言わんとしているのか理解出来ない。僕の物分かりの良さ云々というより、純粋に〈彼〉の言葉に筋が通っていないとしか思えない。そんな僕を他所に、画面の中の〈僕〉は扉を開けて出ていった。実際の扉は寸分たりとも動いていない。だけど、放っておくわけにはいかなかった。
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