4-3

 今夜は雨が降らなかった。これが「幸い」かどうかはわからない。もしかすると、雨が降って、僕が外に出られなくなった方が良かったのかもしれない。

 僕はいつものトレーニング・ウェアに身を包み、ウォーキングという態で家を出た。

 家の前の田圃道を進んでいくと、幹線道路にぶつかった。なかなか青にならない信号が「本当に良いのか?」と問うてくるような気がした。長い時間を掛けて決意の固さを確かめられたけど、僕の意思は変わらなかった。

 渡った先には、似た形の家々が犇めく住宅街がある。ぽっかり口を開けた小道が迷路のように入り組んでいることを僕はもう知っている。今夜は、あの日の帰り道を逆から辿る。わざわざ道に迷う必要もない。

 道筋さえわかっていれば、目的地はあっと言う間だった。

 道には相変わらず、人もいなければ車の通りもない。真新しい信号が、無言で灯っている。歩行者用は赤のまま。ボタンを押す歩行者がいないのだから仕方がない。

 電柱の足元には変わらず花が供えてある。

 赤い光の中で、僕は笑った。己の間抜けさを。

 この場所に見覚えがあるなんてものじゃなかった。僕がこの場所で車に撥ねられ、死にかけたのだ。いや、或る意味では「死んだ」のだ。そうとは知らず、不気味にさえ感じていたなんて悪い冗談にもならない。花は、枯れていないところを見ると、定期的に交換されているようだ。事故現場ということで、轢かれた人間は自動的に「死んだ」ことになっているらしい。

 ずっと青だった車用の信号が、黄色に変わった。押ボタンの箱にある表示が『おしてください』から『おまちください』に変わっていた。道路の向こうは暗くて見えないけど、誰かがいた。

 歩行者信号が青になる。カラカラと、スポークの回る音がこちらへやって来る。僕は知らないうちに息を詰めていた。

 相手の顔が見える。それは同時に、相手にもこちらの顔が認められたということでもあった。音が、甲高いブレーキ音を最後に止んだ。

 やはり、来るべきではなかったのかもしれない。

 相手の自転車の籠に入った花に意識が吸い寄せられた。それは丁度、電柱の足元に供えられているのと同じ物だった。偶然の一致というには出来過ぎている気がする。

「信号、変わっちゃうよ?」

 僕は言った。何か言わなくては、という焦りがあった。

 明滅する緑色の光の中で、佐々木は微かに頷いた。


 想像はしていたのに、いざその場面が現実になると何も出来ずに準備不足を痛感することがある。例えば今がそれだ。

 僕は佐々木の前を歩いている。というより、佐々木が僕の後ろから、自転車を押してついてくる。特に示し合わせたわけでもないのに、僕が歩きだしたら彼女も同じ方へやって来た。本当は、あのまま信号の所で別れてしまうのが正しかったのだ。

 彼女は僕の言葉を待っている。だけど僕は、発すべき言葉が見当たらずにいる。

 こんなつもりじゃなかった。僕はただ、自分が「死んだ」場所を見ておきたかっただけなのだ。

 同じことを佐々木に言おうと試みる。けど、言葉が喉で目詰まりを起こして出てこない。言えるものか、と誰かが言う。自分が事故に遭った現場を見に来たんだ。あんな所で会うなんて偶然だね。ところでその花は何?――僕は唇を噛む。

 僕は佐々木が自ら語ってくれるのを待っている。

 だけど、僕は彼女からどんな言葉が欲しいのだろう?

 彼女に何を望んでいるのだろう?

 事故の真相を聞きたいのか? それとも謝罪? 今までしてきたことを、目の前で懺悔してほしいのか?

 いや、そうだ。突き詰めれば、答えはそこに行き着く。けれど僕は、それを口にすることが出来ない。イジイジと下を向くことしか出来ない。この期に及んで尚、彼女から悪く思われたくないと何かにしがみついている。

 いくつ目かの街灯の下へ来た所で、鈴の音が聞こえた。かと思ったら、ブレーキの音が被さった。振り向くと、佐々木が足を止めていた。

「向田、わたし……」

 そろそろこの辺で、と言おうとしたのかもしれない。だけど僕は、彼女の口を塞ぐ思いで言葉を発した。

「大会、もうすぐだな」

「……うん」

「調子はどう? 優勝狙えそう?」

「どうだろう……」

 言葉は、湿った夜風に流され消えていく。再び沈黙が、暗い歩道に降ってくる。

「今月さ、僕、誕生日なんだ」

 自分でも、どうしてそんなことを言ったのかわからない。足元に落ちていた棒を取り敢えず拾った感じだった。

「そうだったね」

 佐々木が言った。

「優勝してほしい。今度の大会で」

 僕は言った。

 彼女の、今みたいに困る顔が見たくて。

「……約束は出来ないな」

 そう言って、佐々木は弱々しく笑った。笑おうとした。僕は口の中に、毒のカプセルでも噛んだような苦みが広がるのを感じた。

 心の底から彼女を憎めたら、と思う。罵詈雑言をぶつけて、溜飲を下せたらどんなに楽だろう。生憎僕には、そんな勇気はない。この期に及んでもまだ、佐々木とこれで終わりたくないという気持ちが働いている。自分を守ろうとしている。

 僕は言った。

「佐々木ならやれる。だから頑張って」

 俯きがちだった佐々木が、小さく頷いた。

 どちらからともなく、ここで別れる流れとなった。佐々木は自転車を反転させ、サドルに跨がった。彼女が籠の花をどうするつもりなのか気になったけど、考えないようにした。

 佐々木が肩越しに言った。

「ありがとう」

「……うん」

 僕は頷いた。

 自転車に乗った佐々木が、闇に溶けていく。程なくして、元々誰もいなかったような静けさが辺りを包んだ。僕は同じ場所に立ったまま、佐々木が消えた方へ目を凝らした。何も見えない。そしてもう二度と、彼女に会うことが出来ないような気がした。

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