4-2

 放課後になると、喜多君と稲見さんに声を掛けて先に学校を出た。

 今日は月に一度の定期健診の日だ。退院直後は週一回だったのが、二週に一回、三週に一回となっていき、今では月一のペースとなっている。毎回、簡単な検査と、その後の経過を恰幅の良い担当医に報告する。医学的見地から見た僕は「順調に回復」し、「心身ともに異常なし」なのだという。

 尤も、今回は問診がいつもより長かった。僕が右の頬に絆創膏を貼り、右手に包帯を巻いていたからだ。

 怪我の理由を問われたので「ぼんやりしていて転んだ」と答えたら、巨体が壁のように迫って来た。流石に専門家の眼は誤魔化しきれないので「家の中でムシャクシャして暴れた」と話した。母と上手くいかないことがあって、と。これは半分ぐらいは嘘じゃない。結局、怪我の原因は思春期にありがちな親子喧嘩ということで落ち着いた。

 ロビーで清算待ちをしていると、声を掛けられた。

 リハビリを担当してくれた西野さんだった。定期健診に来ていても、何だかんだ時間が合わずに会えていなかったから、退院した日以来の再会となる。前より少し、髪が伸びた気がする。

「どうも」

 僕は立ち上がり、頭を下げた。

「お、普通に立てるようになったか」

 結構結構、と西野さんは腰に手を充て満足気に言った。その眼は、自分の力作を見つめる彫刻家のようだった。

「ご無沙汰してすみません」

「いいよいいよ。便りがないのは元気な証拠だと思っていたから」

 僕は小さく唇を噛む。お礼の手紙でも書いておくべきだった。自分のことで手一杯になり、人への感謝を忘れている。「してもらったこと」よりも「されたこと」ばかりを見ている自分が情けない。

 そんな僕に、西野さんが言った。

「向田君、今、少し時間ある?」


 日は暮れかかってはいたけど、まだまだ辺りは明るかった。僕が入院していた頃は、もうこれぐらいの時間には真っ暗だった。

 中庭には、夕飯までの間に外の空気を吸っておこうという患者の姿がいくつもあった。一人で過ごす人もいれば、家族や見舞客と談笑する人もいる。西野さんはそうした人々に挨拶しながら(皆ことごとく彼女の知り合いだった)、中庭を進んでいった。やがて空いているベンチに腰を下ろしたので、僕も隣に座った。

 西野さんがコーヒーの缶を開けた。同じ物を買ってもらった僕は、熱過ぎるぐらいに温かい缶を両手で包み続ける。寒いわけではないけれど、そうしていたかった。

 コーヒーを一口飲んだ西野さんが言った。

「どうしたの、その顔は?」

「ちょっと、親と喧嘩してしまって」

 僕は、上手くいった実績のある嘘を持ってくる。

「怪我もそうだけどさ、あたしが言ってるのはその色」

 色?

「顔色」

「悪い、ですか?」

「良くはないよね」

 西野さんはまた一口、コーヒーを飲む。

「異常はない筈なんですけど」

「だろうね。どれだけ身体中スキャンしたって、その顔色の原因は突き止められないよ、きっと」

 飲んだら?と促され、僕もプルタブを引いた。

 西野さんの顔見知りらしい、パジャマ姿で杖を突いた老人が通りがかった。「お、西野ちゃんにもついに男出来たか」と茶化すのに、西野さんは「娘の許可も得ないとね」と笑いながら返していた。いつだったかリハビリの合間に、四歳の娘を一人で育てていると聞いた覚えがある。

 老人が去ってしまうと、西野さんは言った。

「あのじいちゃんも事故で入院してきてさ」

 僕は彼女へ目を向ける。

「歳も歳だし、もう歩けるようになるのは無理だろうって、皆が思ってたんだ。でもさ、本人が意地になってリハビリ続けたら、あそこまで歩けるようになったんだよ」

 もう一度、老人の方を見る。小さいながらも角ばった背中が、ゆっくりとだけど一歩ずつ着実に遠ざかっていく。

「君もあのじいちゃんと同じだったなあ」

「何が、です?」

「眼が。リハビリ中、君もあのじいちゃんも同じ眼をしてた。『絶対に前へ進んでやる』って、狼みたいな眼」

「そんな眼、してましたか?」

「してたしてた。飢えた狼の眼だったよ」

 西野さんに笑われて、僕は缶を呷る。いかにも香料を足したらしい無機質なコーヒーの苦みが、口の中に広がった。

「あの時の君は、本当に『生きてる』って感じだったねえ」

「今は違いますか?」

「自分ではどう思うの?」

 言葉に詰まる。答えはあるけど、口にする勇気がない。もう一度、コーヒーを飲む。

 西野さんが言った。

「リハビリってのはさ、事故や病気で生き残った人が、もう一度元の生活に戻っていくための準備なんだよ。だからリハビリが出来るのは、生きてる人だけ。生きようとしている人だけ」

 気付けば僕は、自分の靴を見つめていた。

「君はあの時、必死で生きようとしてたよね」

 前へ。リハビリの時、何度も、何十回も、何百回も唱えた言葉だ。

 前へ。

 前へ。

 前へ進むしかない――。

 どうしてあの頃は、そんなにも前だけを向いて進めたのだろう?

「一遍転んだぐらいでへたばってちゃ駄目だよ。君には立ち上がって前に進める足があるんだから」

 頭上でチャイムが響いた。夕食の準備と、面会時間の終了を報せるものだった。


 西野さんは玄関まで送ってくれた。

「まあ、生きてりゃ色々あるからさ。とりあえず頑張りな」

「それ、友達にも前に言われました」

「なかなか見どころのある友達じゃん」

 でも、と彼女は俄かに声を低める。

「本当にそうだよ。親子喧嘩だって、生きてるから出来るんだから。どっちかが死んじゃったら、もう出来ないんだよ」

「西野さん――」

 言おうとしたら、ポケットの中で携帯が鳴った。マナーモードにし忘れていたらしい。

「すみません」

「いいよいいよ。ここ、もう外だし。それより出たら?」

 頭を下げ、端末を取り出す。母さんからの着信だ。たぶん帰りが遅いことでの連絡だから、後で折り返すことにする。

「いいの、出なくて?」

「はい。大丈夫です」

「駄目だよ、女の子をないがしろにしちゃあ」

 西野さんの口が、俗っぽく曲がる。

「そんなんじゃないですよ」

「またまたあ。しらばっくれちゃって。お姉さんは知ってるんだぞっ」

「はあ?」

「あの子」

「あの子?」

 何かの冗談ではなく、具体的に誰かを指すらしい。

「ほら、よくリハビリ見に来てた。あの子と付き合ってるんでしょ?」

 西野さんが見ているものは、僕には見えない。けど、何を見ているかは見当がつく。

 地面を跳ねる鈴の音が耳の奥で鳴った。

 道に供えられた花束の、信号機の青い光を反射して明滅する様が目の奥に浮かんだ。

 あの子。

 そんな風に呼ばれるような人は、僕の周りには数えるほどもいない。

「リハビリ室の外から向田君のことを――って、これ内緒なんだった。ごめん、あたしから聞いたって言わないでね」

「西野さん」

 僕の口が、意識を置き去りにして勝手に動いた。

「教えていただきたいことがあるんですが」

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