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閉めたカーテンの向こうから雨音が聞こえる。
携帯電話の画面を指で弾くようにスクロールする。目ぼしいものが現れたら手を止め、詳細を表示する。
場所や間取りや築年数よりも、大切なのは値段だ。家賃は元より、敷金、礼金、その他初期費用を念入りにチェックする。自分の中の合格ラインを越えていれば、ノートにメモを取る。そしてまた、画面を指先で弾き始める。
六月に入り、変わったことと変わらなかったことがある。
変わったのは制服だ。冬服から夏服に変わった。僕は細い腕を晒すのが嫌で長袖をまくっているけど、喜多君や稲見さんは涼やかな半袖姿になった。教室を見渡せば、長袖を着ているのは僕か、休み時間に冷え性を喧伝している女子数人ぐらいしかいなかった。
変わらなかったのは、OMOKAGEだ。
僕への「攻撃」はあれ以来ないけれど、本体のモノリスは未だにリビングの一角を占拠している。食事の度に僕はあの棺の前に座り、背中を丸めて物を食べる。表面に目を凝らせばようやくわかる程度の凹みが出来はしたものの、その他に目立った外傷は見られない。血と埃にまみれてまで抜いた電源が、そのまま束ねて床に転がっていることがせめてもの救いだ。
変わったことがもう一つ。雨で外に出られない夜が増えた。
そんな日はこんな風に机に向かい、ケータイの画面に表示した賃貸情報と睨めっこしながらこの家を出ていく算段を立てる。
アルバイトの経験はないけれど、僕はそこそこ貯蓄のある方だと思う。これといった趣味もなければ、お洒落に気を遣うわけでもないから、貰ったお年玉などが口座の中で眠り続けている。贅沢な生活は出来ないまでも、一人暮らしを始めるきっかけの資金ぐらいは賄える額だ。
ここではないどこかで送る生活は、想像するだけで僕の心を安らかにしてくれた。
もちろん、そこまでには越えなければならないハードルがいくつもある。だけど僕は、それら全てをクリア出来る気がしている。僕がこの家を出ることは結局のところ、誰も不幸にならずに済む最善の策でもあるのだ。そのためだったら、いくら行く手を阻まれようがゴールを目指すことが出来る。
佐々木には、この話はしていない。端的に言って怖かった。彼女に反対されるのが、ではない。僕の決断を知った彼女が、自分を責めてしまうような気がしたのだ。
たしかに僕は、彼女の言葉に背中を押されてこういう選択をした。でも彼女が、こっちの方向に背中を押したのでないことは重々承知の上だ。佐々木に罪はない。「きっかけ」ではあるかもしれないけど、「原因」ではない。それをどれだけ言葉を重ねて説明したところで、僕に彼女を納得させることは不可能だ。だからこのことは、彼女には黙っておく。
やがてスクロールが最下部に達した。田舎だから、物件数もそれほど多くない。ノートのメモは、十件にも満たない。
背もたれを軋ませながら、伸びをする。雨音は、まだ続いている。
半年前、僕はまだ深い眠りの中にいた。
半年後、僕はどこで何をしているのだろうか。
わからない。上手く想像出来ない。想像出来ないということは、「何もない」ということのようにも思えてくる。
ごく控えめな、ともすると聞き逃してしまいそうなほど小さなノックが響いた。
「ユキちゃん、お風呂、沸いたけど」
「うん」
僕は短く答える。ドアの向こうで、スリッパの音が遠ざかっていく。
ノートを閉じた。けど、椅子から立ち上がる気にはなかなかなれなかった。
いつまでこうしているつもりかと自問する。
誰も答えてはくれなかった。
ぼんやりしているという自覚はあったけど、それに対処する気力が湧いてこない。だから、ぼんやりを続けてしまう。それで今日、ついにやらかしてしまった。
古文の授業でのことだ。僕の席は窓際で、空がよく見える。今日も朝から雨降りだったけど、その時間は雨が止み、青みがかった灰色の雲の切れ間から光が射していた。「天使の梯子」というやつだ。僕は机に頬杖を突いて、それを眺めていた。綺麗だな、と見惚れていたのだと思う。その時の感動は、もう残っていない。
それでも、授業より心を奪われたのは確かだ。「対決する」の連用形を問う問題で、教師から指されたのに気付かず窓の外を眺めていた。厳しい口調で名前を呼ばれたものの、何を問われているのかわからず、結局謝ってしまった。
この件については、休み時間に喜多君から大いに笑われた。
「らしくねえなあ、ユッキー」
因みに彼は、僕の窮地を救おうと答えを書いた紙を机の端に差し出してくれた。けれど、書かれていた『対決したい』はどう見ても違ったので、気持ちだけ有り難く頂戴する形になった。
喜多君の言葉で、胸に引っ掛かったものがある。
「……僕らしい」
「はあ?」
「僕らしいって何だろう?」
喜多君は目を丸くしていた。それはそうだ。何気なく言ったことの言葉尻を取られて、哲学じみた質問で返されては、誰だってそんな顔になる。
「いや、何でもないんだ」
気にしないで、と言い置いて、僕はトイレに立った。
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