3-8
水の流れる音がする。
やがて蛇口が捻られ、流れは止む。今度は絞った布から水滴が落ちる。
濡れタオルが差し出された。
「これで顔と手、拭いておいて。わたしはコンビニで消毒液とか買ってくるから」
「いいよ、そこまでしなくて」
だけど佐々木は、僕の手にタオルを押し付けると、自転車に跨がってさっさと行ってしまった。
隙を見て逃げようにも、ベンチから立ち上がる気力も体力も残っていない。僕は結局、持て余していたタオルを顔に当てた。ひんやりと気持ち良いのは最初だけで、すぐに傷口に沁みてきた。頬を拭ってから手の汚れも拭いた。真っ白だったタオルは最終的に、赤黒く汚れてしまった。
何をしてるんだ、僕は? 汚れたタオルを眺めながら、そんなことを思う。
結局、何もかもが徒労だった。AIに僕の存在を認めさせるどころか、母さんとの間にさえ埋め難い溝が出来てしまった。
でも、じゃあ僕はどうすれば良かったのだろう?
大人しくAIに「向田行人」の座を譲って、母さんの前から消えれば良かったのか?
見上げた空には、星の欠片すら見えない。今夜は月も出ていない。問いに対する答えは、どこにも見当たらない。
ブレーキが甲高く鳴いた。
自転車のスタンドを立て、籠からビニール袋を取った佐々木が、街灯の光の中へ入って来た。
彼女は難しい顔をしていた。怒っているようにも見える。
「動かない」
消毒液で濡らしたティッシュを僕の頬に充てながら、彼女は言った。「充てる」というよりは「当てる」と言った方が正確かもしれない。
「次は手」
こちらが出すより先に、引っ張られた。
「すごい腫れ……動かせる?」
「痛いけど、折れてはいないみたい」
「医者じゃないんだから、勝手に決めないの」
傷口に消毒液が垂らされると、頭の奥で何かが爆ぜた。
「こら、動かない」
「佐々木だって医者じゃないんだから、もう少し慎重に出来ない?」
「医者じゃないから大胆にやるしかないの」
無茶苦茶だ。
ガーゼを被せ、包帯を巻きつけられた。他に肘や膝も同じように消毒され、絆創膏を貼られた。自分でやると言ったけど、聞き入れられなかった。
全ての処置が終わった後、片付けをしながら佐々木が言った。
「今日って社会科見学だよね?」
「うん」
「一体どこに行ったら、傷だらけで道の真ん中に倒れるような事態になるの?」
「いや、これは社会科見学とは関係なくて……」
口を噤む。これ以上は、相手が佐々木だろうと喋る話じゃない。ここから先は、僕の個人的な問題だ。
遠くの国道を行き交う車の音が微かに聞こえる。それ以外、公園には一切の物音はない。
沈黙は、佐々木の方から破られた。
「……話したくないのなら無理にとは言わないけど、向田が話して楽になるのなら話してほしい」
佐々木の声は、砂に撒いた水のように深く速やかに、僕の中に沁み込んできた。
だけど。
彼女を巻き込むわけにはいかない。巻き込みたくない。
「大したことじゃないんだ」
「あれが大したことないのなら、向田にとっての大したことって何?」
さっき夜道で聞いた、佐々木の声が耳の内側で蘇る。彼女は倒れている僕を見て、叫ぶような声で僕の名を呼んだのだった。佐々木のそんな声は今まで聞いたことがなかったから、今も鼓膜に焼き付いている。
「もし、わたしが見つけるより先に車でも来てたら、どうするつもりだったの?」
僅かだけど、肩が跳ねてしまった。後ろ手に隠した物を言い当てられた気分だ。
言い訳も何も出来ない。これ以上、彼女をけむに巻くのは不可能だと悟った。それに、あれだけの心配を掛けた相手に「ごめん」で押し通すのは、やっぱり不誠実だ。
「……母さんの大事な物を壊しちゃったんだ」
「それで、その怪我を?」
佐々木は眉を顰める。オブラートに包んで話せば、当然このような反応になる。
「これは自業自得なんだけど」
喋りながら、ぼかす箇所とそうでない所の境を探る。といって、僕にはそんな技術も器用さもないから、すぐに話は行き詰まる。
佐々木が溜息を吐いた。
「わたしには向田が壊した物が何なのか見当もつかないんだけど、そんな怪我をしてまで壊さなければならなかった物なのね?」
僕は頷く。
「それは、向田にとって良くない物」
頷く。
「もしかすると、小母さんにとっても」
小さく首を振る。
「わからない」
あのAIは、母さんにとって「良くない物」だったのだろうか?
いや、わからないのではなく、わかろうとしていないだけだ。
OMOKAGEは、母さんにとって「良い物」だ。ずっと母さんの支えになってきたのだ。眠っている僕に代わって。
だったら、僕がいる理由って何だ?
僕は本当にあの家に、母さんの傍にいなければならないのか?
母さんを傷つけてまで、自分の居場所を確保する理由はどこにある?
母さんにとっての「向田行人」はもはや、あのAIなのだ。僕が目覚めたのは不測の事態で、少なくとも僕はずっと眠っているべきだったのだ。
「少なくとも――」
佐々木が口を開いた。
「向田は『小母さんにとって良くない物』と判断した」
僕は佐々木を見る。
「だから壊したんでしょう?」
佐々木も僕を見る。
「わたしの知る限り、向田は自分のためだけに行動する人じゃないよ」
それから彼女は小さく「良くも悪くも」と付け足した。
僕は地面に眼を落とす。
「……僕は自分のことで精一杯だ。人のことなんて考える余裕もない。自分が何かをすることで、相手がどういう風に感じるかなんて簡単なことすら想像出来なかった」
包帯の下で、右手の指の付け根が疼く。頬の傷も。身体中が、わけのわからない熱を帯びている気がする。
「僕は馬鹿だ」
「いいじゃない、それで。今の向田は、まず自分のことを一番に考えるべきだと思う」
佐々木が言った。それが当然の道理だというような調子で。
「一年も不当に時間を奪われたんだもの。それぐらいの勝手をする権利はある。そうじゃないと、報われない」
最後の「報われない」という言葉にだけ、色が付いたように聞こえた。
僕は下を向いたまま、「ありがとう」と呟いた。彼女の眼を見て言う度胸はなかった。
地面から目を離し、何も見えない夜空を見上げる。冷たい夜風が心地良い。全身に蔓延っていた嫌な熱は、いつの間にか引いていた。
ちりん、と鈴の音がした。
立ち上がった佐々木の鞄に付いている物だった。
「そろそろ帰ろう」
彼女は言った。
僕は、街灯の下で白く輝く鈴を見つめながら頷いた。
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