3-7

 背中を叩かれ、ハッとした。

「おい、ユッキー」

 見れば、喜多君と稲見さんが立っている。

「一人で勝手に行くなよな。単独行動禁止だぞ」

 喜多君の顔から眼が離れない。何も、考えられない。

「なんだか顔色が悪いみたいですよ。大丈夫ですか?」

 見上げてくる稲見さんに頷く。何が「うん」なのかはわからない。

 落ち着け。

 まずは状況を整理しろ。

 右手には、携帯電話。握り拳を作っていた左手は、汗でじっとりと濡れている。

 胸が苦しい。息が上がっている。全力疾走でもしたみたいだ。

 ケータイの画面は真っ暗だ。親指でタップしても点かない。本体脇のボタンを押すと、充電切れを示すマークが寝ぼけ眼を擦るように点滅した。

 再び背中を叩かれる。

「ケータイの電池切れたぐらいでそんな蒼い顔すんなって。現代っ子か」

「全然必要のない喜多君とは違うんですよ」

「何だと? 自分だって全然掛かってこないくせに」

「わたしはゲームしたりプログラム組んだりするんです」

「ごめん二人とも。少し、あそこで休んでてもいいかな?」

 僕は言った。強い立ちくらみに襲われていた。

「ああ……」

 ホントに大丈夫か?という喜多君の言葉に、僕は小さく頷いた。

 二人に背を向け、ベンチを目指す。意識も身体も、砂袋を引きずっているように重い。たった数十メートルであろうベンチまでの距離が、この世の果ての、更に遠くにあるように思えた。


 疲れている筈なのに、帰りの電車では全然眠れなかった。

 日が暮れ、真っ暗になった向かいの窓に、僕たちの姿が映る。横並びのシートに、稲見さん、僕、喜多君が並んで座っている。両脇の二人はいずれも眠りこけ、そうすることが当然という風に僕に凭れかかってきている。だけど、僕がまんじりともしなかったのは二人のせいじゃない。

 動物園でのことを反芻する。こめかみに力が入る。両手で包んだ携帯電話も、呻くように軋む。

 時間が経てば落ち着くかと思ったけど、実際は逆だった。むしろ家に近付くにつれ、お腹の底で溶岩のような赤黒いドロドロした感情が、粘り気のある泡を膨らませては弾けるようになっていた。

 これは攻撃だ。

 明白な、僕に対する敵対行動だ。

 対向列車が窓にぶつかるような音を立てながら通過する。僕らの姿は、あちらの車両の明かりに掻き消される。

 再び窓が静けさを取り戻した。

 そこには、相変わらず眠りこけている二人の友人たちの姿があった。けれども彼らの真ん中には、見たこともない顔をした僕が座っていた。


 買い物に行っているのか、母さんは留守だった。

 玄関に靴を脱ぎ捨て、リビングへ「突入」する。

 不調な冷蔵庫でも出さないような、低い唸りがまず耳に付いた。モノリスの起動ランプが灯っている。

 テーブルの向こうには、ホログラムの〈僕〉が立っていた。彼の姿を目にした途端、予感が確信へと音を立てて固まった。〈僕〉は薄笑いを浮かべたまま何も言ってこない。僕は呼吸を整えてから、押し殺した声を出す。

「随分と悪趣味じゃないか」

 声が震えないよう努めた。

『〈悪趣味〉っていうのは、何だい?』

「それぐらい知っていると思ったけど」

 僕たちの間には壁がある。

 決して越えられず、壊せもしない、高く分厚い壁が。

 僕はこちら側で、どうにかやって来た。壁の向こうにいる者に、僕の存在を知らしめようと声を上げてきた。

 その結果返ってきたのは、返事ではなく石礫だった。

『君が何を言わんとしているかはわからないけど、怒っているようだということはわかる』

「……だったら、話は早い」

 今更わざわざ言う必要はないけれど、僕は聖人でも何でもない。石を投げられたら、投げ返さずにはいられない弱い人間だ。

『無駄だよ』

〈僕〉が言った。

 その声を掻き消すように、僕はモノリスに拳を打ち込む。何度も、何度も、何度も。

 間もなくして拳の感覚が死ぬ。手を握っていられなくなる。真っ黒な棺の表面には、僅かな凹みも見当たらない。

 だからといって、止める気は起こらない。

 椅子を引っ掴み、モノリスに叩き付ける。勢いが中途半端だったのか、固い脚は折れることなく弾き返される。

 体勢を崩すが、踏み止まる。

 まだだ。

 もう一度、今度は横合いから椅子を叩き付ける。

 負荷に耐えかねた物体の壊れる感触が、手に伝わってくる。だけど、「手応え」とは違う。小さな破片が飛んできたので、咄嗟に目を閉じる。右の頬を何かが掠ったと思ったら、たちまち痛みと生暖かさが溢れてくる。呼応するように、右の手も疼き出す。

『無駄無駄』

〈僕〉が嗤う。僕の声で。

『君に壊せるわけがないさ。だって君は幽霊だもの』

「幽霊はそっちだ」

『そっちだよ』

 目を瞑る。

 呼吸を整え、再び瞼を上げる。

 目の前の景色は、何も変わっていない。覚めない悪夢にいるようだ。

 だけど、悪夢を終わらせる手立てはある。

「……君は僕だ」

『僕は向田行人だ』

「だけど、僕は君じゃない」

 モノリスと壁の間に手を入れ、コンセントへ繋がるケーブルを掴む。分厚いビニールがヌルヌル滑る。たぶん血だ。どれだけ血が流れようと構わない。プラグを握る。感電しようと構わない。体中の力を右手に込めて、プラグを引き抜く。

 何かが弾けるような音がした。焦げた臭いが鼻を突いた。

 通奏低音となっていた唸りが勢いを失くしていき、やがて止まった。

 モノリスが沈黙したので確認するまでもないのだけど、一応後ろを窺った。誰の姿もなかった。

 でも、耳元でガサッという音が聞こえた。

 それは例えば、食料品を詰めたビニール袋が落ちるような音だった。

 目を移すと、入り口の敷居の上に並ぶ、薄いピンク色のスリッパが見えた。しまったな、という言葉が胸の中に浮かんで消えた。この場を見られたことに、じゃない。今の僕が靴を脱いだきり、靴下のままであることに、だ。

「ユキちゃん……」

 少しも動かないスリッパから目が離れない。離すことが出来ない。

「それ……」

 顔を上げなくても、相手が何を指しているかはわかる。右手だ。精確には、僕の右手の中で血に濡れて、ヌラヌラ光っているケーブルだ。

「母さん、これは……」

 これは、何だというんだ? ダイニングテーブルの位置は乱れ、数分前まで椅子だった物の残骸が転がっている。知らないうちに落ちた花瓶も粉々だ。この光景を以てして、僕は何と言い訳しようとしているのだ?

「違うんだ」

 違わない。何も違ってなんてない。

「これは――」

「ううん、いいのよ」

 書き損じを塗り潰すような声に、思わず顎が上を向いた。けれど母さんの顔は、廊下の明かりが逆光となってよく見えなかった。

「いいの。黙っていたお母さんが悪いんだから」

 何か言おうとしたけど、喉が締まって声が出ない。

「ユキちゃんが焦ったり苛立ったりしているの知ってたのに……なのに、黙っていたから」

「母さん、待って」

 ようやく声が出た。それから、よろめきながら立ち上がる。足元で硝子の破片が砕ける感触があった。

「お母さん、弱い人間だから……ユキちゃんがいないと生きていけないから……」

 母さんの声が泪を帯びる。

 崩れそうになった母さんを支えようと、僕は一歩前へ踏み出した。でも、その必要はなかった。母さんは崩れ落ちたりしなかった。僕の動きに、咄嗟に身構えたから。

 驚いていたのは、むしろ母さんの方だった。

「ち、違うのよ、今のは――」

 こういう時、言葉は無力だ。どれだけ否定を重ねても、燃え盛る炎のような事実に薪をくべることにしかならない。

「ちょっと出てくるよ」

 僕は母さんの脇を抜け、そのまま玄関へ向かった。

「ユキちゃん!」

 脱ぎ捨てたままだったスニーカーを突っかける。踵を踏んだまま、ドアに手を掛ける。

「ごめんね、母さん」

 外へ出る。僕を呼ぶ声が聞こえたけど、蓋をするように後ろ手で扉を閉めた。

 少しでも遠くへ。

 ここから、一刻も早く遠ざからなければ。

 僕は歩く、歩く。身体に絡みつく、見えない糸を断つように。ひたすら足を運ぶ、運ぶ。

 身体が前にのめる。段々歩いているのがもどかしくなってくる。地面を蹴る力が増す。一歩一歩が跳ぶような足取りになる。

 右肘を引き、今度は逆側を引く。

 気付けば呼吸が弾んでいる。

 走っている、久しぶりに。「目覚めて」から初めて、僕はちゃんと走っている。

 爽快感なんてない。そればかりか、自分が何か、とんでもない間違いを犯している気さえしてくる。

 だけど僕は走る、走る。そうすることしか、するべきことが思いつかないから。

 他に出来ることなんてないから。

 突然、踏み込みの感触が消えた。地面を踏み抜いたかと思うぐらい抵抗なく、脚に力が入らなくなった。

 膝が砕けた気がした。アスファルトの上を何度か転がって、右の頬を地面につけてようやく止まった時、自分が走って来た方に膝から下をつい探してしまった。暗くて何も見えなかったけど。

 小さい頃は、転んだりすれば母さんが助けてくれた。泣きそうになる僕を、母さんは何も言わずに抱きしめた。その温もりに包み込まれると、膝の痛みなどどこかへ消えた。

 だけど今は、一人で夜の底に這いつくばるしかない。

 このまま闇に溶けてしまうのも悪くない、と胸の隅で思いながら。

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