3-6
「おおおおー」
喜多君と稲見さんが同時に感嘆を漏らす。
「すげえ、中におっさんが入ってるみてえだ」
「あのもふもふ、絶対に気持ちいいやつです」
二人の向こうでは、ふんぞりかえったパンダが笹をムシャムシャ食んでいる。パンダにとっては当たり前の行動でも、実物を目にする機会の少ない人間にとってはそれだけで一つのイベントだ。だから、いつまで見ていても飽きない。
でも、三十分は少し居過ぎな気がする。
こんな調子で行くと、半分もいかないうちに時間が来てしまう。けれど、夢中になっているところに水を差すのも悪いので、僕は僕で別の動物を見て回ることにした。
辺りの光景には、微かに見覚えがある。折り鶴の掛けられた慰霊碑は、大昔の戦争の際、万一動物園が爆撃を受けた時に備えて殺処分された動物たちを悼むものだと父さんが言っていた。たしかあの時、僕はこの前で手を合わせた筈だ。同じようにしてみると背後に、両親が立っている気配を感じた。
世界中から集められた鳥たちを眺めながら進む。鷲と鷹の違いが身体の大きさだけ、と父さんに教えられたことを思い出した。どちらが大きいのかは忘れてしまった。
ライオンは、二頭並んで昼寝をしていた。背中で日光を集めることに集中しているようにも見えた。その隣の檻にいるトラは、忙しく歩き回っていた。硝子の向こうに見える人間たちに飛びつく機会を窺っている風でもあった。
テナガザルとゴリラは、一見するとどこにいるのかわからない。でも僕は、すぐに見つけられた。テナガザルは檻の一番上の隅に身を縮ませていたし、ゴリラは奥の岩の影で背中を丸くしていた。あの時と同じだ。僕がどれだけ指さしても、母さんは檻の中の動物を一向に見つけられずにいた。
坂を下った広場には、バクがいた。自らを日干しするみたいに、水辺に寝転がっている。人の夢を食べるどころか、自分で夢を見ているようにじっとして動かない。
三種類のクマたちは、それぞれが檻の中で同じ動きをしていた。コンクリートで舗装された細長いスペースを、頻りに往復しているのだ。野生には絶対に存在しない足裏の感触を珍しがっているのかもしれない。もしくは、自分が森にいるのではないという事実を自身に言い聞かせる儀式か。
ホッキョクグマも同様に歩き回っていた。アザラシとアシカは昼寝の最中だった。どちらがアザラシで、どちらがアシカなのか、僕には見分けがつかなかった。
カーブを曲がると、岩山が見えてきた。目を凝らすと、溶け込むような色をした毛の玉が点々と丸まっている。真っ赤な顔。真っ赤な尻。毛繕いをする者。子供を背中に乗せて歩く者。どれがボスなのかはわかならない。昼下がりのサル山には安閑とした時間が流れていて、そこにはどんな階級も争いも存在しないように見えた。
食事中のゾウを眺めていると、足元に何かがぶつかってきた。小さな男の子だった。
「すみません」
その父親らしき人が慌てた様子で言って、男の子を抱え上げた。僕は会釈を返した。
男の子は肩車をしてもらって、ゾウを見る。「ゾウの背中に乗りたい」などと言って、父親を笑わせたりしている。
僕には誰かに肩車をされた覚えはほとんどない。ほとんど、ということは、一度はある筈で、父さんの肩に乗ったことをおぼろげだけど覚えている。そんな機会はそうそうなかったから、もしかするとこの場所だったのかもしれない。
ポケットの中で携帯電話が振動した。喜多君たちかもしれないと思って取り出したけど、画面は母さんからの着信を示していた。
父さんのことを考えていたせいか、心臓を掴まれた感じがした。僕は柵の前を離れ、電話を取る。
「もしもし」
スピーカーは無音のままだった。もう一度呼び掛けたけれど、やっぱり母さんは何も言わない。
端末を耳から離してみると、画面ではカメラが起動していた。
画面をタップしたり、ボタンを押しても反応しない。画面の左上に矢印が表示されたのでそちらへレンズを向けると、小さな男の子が映った。
先ほどの男の子ではない。
だけど僕は、その子に見覚えがある。
男の子は、食い入るようにゾウを眺めている。柵があるのがもどかしいとばかりに、頭を左右に揺らしている。
画面の端から、今度は二人の男女が現れた。歳の頃と雰囲気からして、男の子の両親だろう。
いや、「だろう」なんて言う必要はない。
男の子が父親を振り仰ぎ、何かを訴えている。父親は頷くと、男の子を肩車して立ち上がった。
今まで見上げていた景色を見下ろすことが出来て、男の子は興奮している。あんまり動くと危ないぞ、と父親は言う。そんな二人を見て、母親は傍で笑っている。幸せが溢れる、微笑ましい光景だと思う。
それが僕の家族でなかったら。
端末を握る手に力が入る。どんな操作を試みても、相変わらず反応はない。画面は頑としてカメラモードのままだ。
己の眼で、「僕たち親子」のいた方を確かめる。誰もいない。当然だ。幼い僕と、父さん、あの頃の母さんは、画面の中にだけ存在している。わかってはいるのに、何度も端末を上げ下げしてしまう。
一体僕の身に何が起こっている?
一体僕は何をされている?
唐突で、理解し難い状況ではあるけども、全く何もわからないというわけじゃない。僕の過去。思い出の場所。電子機器の操作。転がっている要素を繋げれば、これが誰かの仕業だということ、そしてこんなことをする犯人の姿が自ずと見えてくる。
『ねえ、あの人だあれ?』
幼い僕が、こちらを指さす。その声は、距離があるというのに鮮明に聞こえてくる。すぐ傍で喋っているみたいだ。
父さんと母さんがこちらへ身体を向けた。
『おや、誰だろう?』
『誰かしら?』
二人とも、板に描いたような眼差しを投げてくる。
父さんの肩に乗る僕もまた同じだ。
『お兄さん、だあれ?』
『誰だい、君は?』
『あなた、誰?』
何だこれ。
『ねえ、だあれ?』
『誰なんだい?』
『誰よ、あなた?』
僕は、何を見せられているんだ?
『教えてよ、ねえ』
『誰だ?』
『誰なの?』
『だあれ?』
『誰?』
『誰?』
危うく答えそうになる。けど幸いにも、口がカラカラに渇いて声が出ない。
『誰?』『誰?』
『誰?』『誰?』『誰?』
『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』
止めればいいのに画面から目が離せない。意識が離れない。
『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』
『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』
『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』
かつての僕が、父さんが、母さんが、口々に言う。
『誰?』『誰?』『誰?』
『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』
『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』
『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』
僕は向田行人。
『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』
僕は向田――
『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』
『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』
『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』
『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』
『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』
『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』
僕は……
『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』『誰?』
渦を巻いていた音が、不意に止んだ。
画面の中には、幼い僕だけが立っていた。
『君は、どうしてそこにいるの?』
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