3-5

 社会科見学当日、時間通りに来るかが懸案となっていた喜多君は、意外にも集合時間に間に合った。

「俺だってこんな時ぐらいは時間を守る」

「偉いようで偉くないよ、それ」

「こないだは三十分も遅刻しましたけどね」

 稲見さんは「勉強会」の時のことを掘り返す。あの時は二人して、図書館の前から寝ている喜多君にほとんど交互に電話を掛けたのだった。

「過ぎたことをいつまでも言ってんじゃねえ。さ、行くぞ」

 喜多君は先頭を切って改札へ向かい出した。

 二年生の社会科見学というのはちょっと妙で、学校からバスで行くわけでもなければ、現地集合現地解散というわけでもない。班ごとには集まりはするものの、銘々が電車に乗って東京へ行き、予め決めておいた見学コースを周り、よきところで家路に就くという流れだ。途中に点呼や出欠確認もないので、その気になればサボることだって出来る。

「喜多君がこういうのに前向きなのって意外だよね」

 東京へ向かう電車の中で、僕は思ったままを口にした。僕たちは、運良く空いていたボックスシートに揃って座ることが出来た。

「東京なんか他に行く用事もねえしな。珍しいもの見たさだ」

 言われてみると、僕自身、東京へ行くのは随分久しぶりだ。目が覚めてからは行っていないのだから、二年近くは経つだろう。

 喜多君は頬杖を突いて窓の外を眺めている。そんな彼の隣で、先ほどまでうつらうつらしていた稲見さんが、今では完全に眠りこけている。彼女は電車の揺れに伴って、喜多君の身体に凭れた。稲見さんは起きず、喜多君も気付いていないのか気にならないのか、二人はそのままだった。

 鉄橋を渡る轟音が過ぎた時、喜多君がポツリと言った。

「去年の今頃は、こんな風にしてるなんて想像もしなかったな」

 機械的な女性の声が、次の停車駅をアナウンスした。電車が徐々に速度を落とし始める。

「僕もだよ」

 というか、自分が生きているのかどうかさえわからなかった。

 僕が深い闇に沈んでいる間、同級生たちは今日の僕らと同じように東京行きの電車に揺られていたのだろう。今、辿り着いた駅も、これから目にする景色も全て、彼らは既に出会っているのだ。

「人生ってのは、何が起こるかわかんねえな」

「電車に乗ってるだけなのに、深いね」

「大事なことなんてのは案外、何でもない時に見つかるものなんだよ」

 そうかもしれない。僕も喜多君と同じように、窓枠に肘を乗せて頬杖を突いた。

 突然、喜多君が窓に張り付いた。

「おい、あれ、スカイツリーじゃねえか?」

「あれはただの煙突だよ」

 僕が言うと、喜多君は残念そうに元の姿勢に戻った。

 踏切の警報が、ドップラー効果を残して流れていく。少しずつ混み始めてきた車内とは対照的に、窓の外を流れていく景色はまだまだ長閑だった。

 やがて喜多君も居眠りを始め、僕も眠気に足を引っ張られ出した。うとうとしている耳に、また踏切の音が入って来た。そこで記憶は途絶え、次に目が覚めた時にはもう、電車は上野駅に着いていた。


 ずしりと重い六角形の御御籤箱を何度か振ると、棒が一本滑り出てきた。

 先端に書かれた十三番という数字に不吉なものを感じつつ、該当の引出を開ける。中に入っていた細長い紙の真ん中には『末吉』の文字があった。曰く、「一瞬の惑いですぐに行動を起こさぬが良い」とのこと。

「残念だったな、ユッキー」

 笑いながら喜多君に背中を叩かれる。別に、凹んでいるつもりなどないのだけど。

 稲見さんは大吉だったらしい。「籤運だけは良いんです」と謙遜していたけど、やっぱり嬉しそうに紙を財布にしまっていた。続いて引いた喜多君は大凶だった。

「よし、次は向こうのをやろうぜ」

 籤をズボンのポケットに押し込みながら喜多君は言った。

「大吉以外の籤は神社に結んで帰らないと」

「特に大凶なんて危険です」

 僕と稲見さんが言うと、喜多君は籤を結びに走った。

 上野駅に降り立った僕らはまず、人の多さに圧倒された。あちこちから流れが押し寄せ、どれに乗れば出口へ向かえるのか見当もつかなかった。更に、改札の表示が至る所に点在しているのにも混乱させられた。階段やエスカレーターを上り下りして、どうにか目的の公園口に辿り着けたのは、もはや奇跡というべきだ。

 予定に沿って美術館に入り、その後で公園を巡った。森に包まれた園内には、美術館や博物館、噴水の広場があるかと思えば、野球場や蓮の茂った池や神社仏閣が同居していて、いくら歩いても飽きなかった。御御籤も、そんな風にぶらぶらしている中で見つけた。

 大凶と末吉の御御籤を結び終えてから、今度は誕生月での運勢を占う籤を引くことになった。結果が十二通りしかない分、さっきのものより精度に疑問を抱かずにはいられなかったけど、一方では末吉に満足していない自分もいた。僕は小さな賽銭箱に百円玉を入れ、仕切りで区切られた箱の『六月』の所から籤を一枚取った。

「ユッキー、来月誕生日か?」

 言いながら、喜多君は『十一月』の籤を取る。

「そうだよ」

「じゃあ、この中では一番年上ですね」

 稲見さんが取ったのは『八月』の籤だ。

「何月でも年上だけどな」

 稲見さんは、たった今口から放った言葉を掻き集めたそうな顔になった。

「すみません、そんなつもりじゃ……」

「別にいいよ。気にしないで」

 稲見さんの慌てぶりに、思わず苦笑してしまう。彼女は本当に、僕の事故のことなど忘れていてくれたのだろう。

「来月はパーティーしないとな。お、小吉」

 小吉って末吉より上か?と訊かれたけど、その辺の事情はよくわからない。稲見さんはまた大吉だった。

 僕は、と畳まれた紙を開けば、喜多君と同じ小吉だった。ただ、彼のものとはそこに書かれている言葉が違っていた。

『失せものに注意』

 その短い一文は、何故だか僕の意識を捉えて離さなかった。


 午後に入る筈だった博物館は、改装中のため休館していた。調べればすぐにわかることだったのに、すっかり見落としていた。

 予定に穴が空いてしまったわけだけど、喜多君はむしろ嬉しそうだった。

「じゃあ、スカイツリー行こうぜ」

 案の定、彼は言った。

「近くに見えるけど、結構遠いんだよ?」

 と僕は言ったけど、喜多君は今にも駅へ向かって歩き出そうとしている。稲見さんにも加勢してほしかったけど、振り向いた時、彼女の身体は別の方を向いていた。その視線の先には、動物園のゲートがあった。

 突然、頭の奥でずっと消えていた電灯が点いたように、記憶が蘇ってきた。

 小さい頃、僕はあのゲートをくぐったことがある。

 両手を誰かに引かれていた。片方は母さんだ。もう片方は、父さんだろう。

 父さんは忙しい人だったから、家族三人でどこかへ行ったという記憶はあまりない。出掛ける時は大抵、母さんと二人だった。

 だからこれは、貴重な記憶だ。

 大事にするあまり、頭の奥にしまい過ぎてしまった記憶でもある。

「動物園、行こうか」

 稲見さんに、というより、自分に向けて僕は言った。

 喜多君はあくまでスカイツリーへ行きたがっていたけど、ここは多数決の理を押し通した。僕たちは、三人並んでゲートをくぐった。

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