3-4
テストが返って来た。
今回は中間試験なので、現文、古文、数学、英語、世界史、物理の六教科、計六〇〇点が最高得点となる。残念ながらそこまでは届かなかったけど、一年生の時の成績を鑑みれば、我ながら健闘したと言っても良いような点数を獲ることが出来た。学年での順位も、今まではせいぜい五十位以内だったのが、両手の指に収まった。隣の席では喜多君が机に突っ伏していたけど、僕は小さく拳を握った。これぐらいなら許してもらえるだろう。
昼休みになると、喜多君や稲見さんと共に屋上へ出た。暖かく、青い空には一点の雲も見当たらなかった。
気持ちの良い初夏の陽気の中で、ただ一つの例外が喜多君だった。
「……昼、食べないの?」
彼はコンビニの袋をぶら下げていたけど、一向に手を付ける気配を見せなかった。思えば教室を出た時から、ゾンビのような足取りだった。
「喜多君、約束通り勉強会ですよ」
小さな弁当箱を抱えた稲見さんがブロッコリーにフォークを突き刺しながら言った。
「勉強会?」
僕は訊ねる。
「今回の順位が学年全体の半分以下なら、毎週一度は勉強会をするって約束したんです」
「へえー」
知らない所で、知らない約束が成されている。僕が見ていない時にだって世界は動いているのだ。当たり前のことだけど。
「なあ、いいじゃねえか。四捨五入したら半分いってるだろ?」
喜多君が言った。ゾンビがたまたま生前の自我を取り戻した程度の弱々しい抵抗だ。
「四捨五入したら0点ですよ」
稲見さんはにべもない。机を投げた時の姿は見る影もない喜多君は、泣きつく相手をこちらに変えてきたけど、僕には彼を癒やせる術はない。
「いいじゃない、勉強会。同じ授業を受けてる仲間が教えてくれるのなら、理解もしやすいと思うよ」
「よかったら向田君もどうですか?」
「うん、参加しようかな」
僕は頷いた。
「ユッキーは何位だったんだよ、テスト」
「え?」
人の順位を知らない分、自分のものも教えていない。彼らにわざわざ吹聴するほどの自己顕示欲もない。そういうものをぶつける相手は弁えているつもりだ。
「結構良かっただろ。ガッツポーズしてたもんな」
喜多君は勉強よりも大切な力を備えている人だ。
「人の順位はいいんです。自分の順位を上げることに集中してください。今度の土曜日の午前九時から図書館で。いいですね」
「九時って、余裕で寝てるんだが」
「必ず起きてください」
「大人しかった頃が懐かしいな」
喜多君は僕に耳打ちしたけど、声はしっかり漏れていたようで、
「八時からにしましょうか」
「九時でいいです」
僕は笑った。二人のやり取りを聴いていたら、お腹の底から笑いが湧いてきた。
気付けば喜多君と稲見さんが、こちらを見つめていた。二人とも、顔にうっすらと笑みを滲ませている。
「な、何?」
「いや、ユッキー明るくなったなと思ってな」
「前と変わらないと思うけど」
「でも、今の笑い方は本当に楽しそうに見えました」
「前は違った?」
僕が問うと、稲見さんは言葉を探すように目を走らせる。
「――少し、寂しそうでした」
「そうかな?」
「ああ、俺もそう思ってた」
「そっか」
ほんの二週間前だったら、そうだったのかもしれない。たしかに、冬の曇り空のような雲が自分の中に詰まっていた感覚はある。
でも、今は違う。ここから見上げる空のように、今の僕は晴れ渡っている。
「『二人のお陰だよ』とか言うなよ? 恥ずかしいから」
喜多君が言った。
先手を取られた気持ちを隠すため、僕は苦笑いを浮かべたきり、黙って残りのお茶を飲み干した。フェンスの向こう、遠くの空に、無言で漂う雲の欠片が見えた。
テストの結果を知らせると、母さんも喜んでくれた。
「今夜はご馳走作らなくちゃね」
何が食べたいかと訊かれたので、「カレー」と答えた。今なら、昔通りの味に感じられる気がした。
「買い物、一緒に行くよ」
母さんは車の運転が上手くない。免許を持っていない僕が言うのも何だけど、自分ならもう少し上手く出来る気がする。
基本的に車線変更はしないし、右折時には明らかに対向車が遠くにあってもそれが通り過ぎるのを待ってしまう。一時停止の標識を見つければ急ブレーキも厭わず、スーパーなどの駐車場に停める際は周りに車のいない建物から離れた場所を選ぶ。前はもう少しマシだったと思うけど、久しぶりに助手席に座ったら、ぎこちなさが矢鱈と目についた。こんな状態で一人で運転している姿を想うと、寒気がしてくる。
「ユキちゃん、学校はどう?」
国道を走りながら、ハンドルを握りしめた母さんが前を向いたまま言った。たぶん、話をすることでリラックスしたいのだ。
「楽しいよ」
「新しいお友達も出来たんでしょう。今度、うちにも呼んで頂戴」
「誘ってみるよ」
「お勉強は? 大変じゃない?」
「大丈夫。ちゃんと勉強すれば、追いつけるよ」
「そう。ユキちゃん、頑張り屋さんだもんね」
「このまま受験まで突っ走るよ」
通りがかった信号がきわどいタイミングで黄色から赤に変わる。母さんは進もうかどうか迷ったらしく、車はやや乱暴に停車した。
フロントガラスの向こうを、左右からの車が行き交い出した。
「そうね」
大きなトラックが、牛の怪物の鳴き声みたいな音を上げて通り過ぎる。
僕が何に対しての「そうね」かわからずにいると、母さんは続けた。
「受験……そうよね。来年は受験生だものね」
車の流れが途切れ、補助信号で右折した車が左斜め前から向かってくる。それも途絶えると、僕らが待っていた信号が青になる。薄い氷に踏み出すようにそろそろと、車は走り出した。
そこからスーパーに着くまで、母さんは何も言わなかった。僕の方からも特に話しかけたりはしなかった。
僕は考え事をしていた。
先ほどの「そうね」と「受験……」の間に母さんの中に浮かんだであろう言葉を想像する。声にこそならなかったけど、あの間には確かに何かしらの言葉が存在した。あれは、そういう種類の間だった。
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