3-3
試験期間中は控えていた夜の散歩を再開する。
家を出る際には、母さんにちゃんと声を掛けた。喜多君の家に泊まった晩は、連絡が遅くなり、いたく心配させてしまったようだった。
「今日はちゃんと帰ってくるよ」
そう言い残して、僕は家を出た。
前は肌寒さを覚えた夜の空気は、いつの間にか次の季節を迎えていた。防寒のために羽織っていたパーカーが、いらないとまでは言わないものの、前を開け腕まくりする必要があるぐらいには暖かくなっていた。
夜が、前に歩いた時より明るい気がした。満月だからというのではなく、真っ暗闇だったものが、いくらかその手を緩めているようだった。闇が薄まった、とでもいおうか。
季節が変わったせい、というのでもないだろう。たぶん、僕の心持ちの問題だ。前なら同じ道を、僕の居場所がない家から逃げるために歩いていた。でも今は、自分の居場所を取り戻す未来に向けて歩いている。先の方までは見通せないけど、道が闇の向こうまで続いているのがわかるから、迷わず歩くことが出来る。
見上げれば、星が瞬いている。粒のような光でも、見つめていると、エールを送られているように思えてくる。
足を速めた。少しだけ、走ってみた。
すぐに膝が音を上げたのでやめたけど、僕の胸には清々しさが満ちていた。まだ焦ることはない。この先、練習を積んでいけば、必ずまた走れるようになる。確かな手応えが胸の底から湧いてきた。
走りで消化できなかった分の気持ちは、歩いて発散するしかない。いつもは幹線道路にぶつかると次の信号まで歩き、また田んぼ道へ折り返していたのを、今夜は道路を渡り、普段は行かない別の住宅街の方へ入った。うちの方も一応住宅街ではあるけど、隣との間隔が空いている分、寂しい感じが否めない。一方こちらは、どれも似た形の家々が隙間なく並び、圧迫感さえ覚えるほどだった。
道が狭い上に入り組んでいる。先ほども通ったような十字路が何遍も続き、折れる所を間違えれば人の家の駐車場ということもざらにある。歩いているうちに、迷路の中を彷徨っているような気分になってきた。
息が上がって来たと自覚した時、不意に広い道路に出た。広いといっても住宅街のそれに比べればという意味で、片側一車線ずつの普通の直線道路だ。車の通りはなく、橙色の街灯が点々と並んでいる。右にも左にもコンビニの看板などは見当たらず、道沿いには何かの工場か、学校のような施設が夜の底で蹲っている。
方向感覚は住宅街の中で麻痺していた。ここは素直にポケットから携帯電話を取り出し、地図アプリを立ち上げた。
現在位置の周辺図が出てくるけど、全く見当がつかない。道路を挟んだ反対側の街区でこれなのだから、海外にでも行ったらどうなってしまうのだろう。指で画面を摘まむようにして地図の縮尺を変えると、ようやくさっき渡った幹線道路が現れた。どうも、住宅街に深く入り込んでしまったみたいだ。
方向を確認して、そちらへ歩き出す。画面の中の、僕を表すアイコンも同じ方向へ動き出したので、携帯電話をポケットにしまう。
暗い歩道を歩くうち、今この瞬間の光景を夢で見た、という感覚に襲われた。いつ見た夢なのか、そもそもそんな夢を本当に見たのか。真偽のほどを確かめようと目を凝らすと、不意打ちを食らわせてきた感覚は霧となって消えてしまった。
どこにでもあるような道だから、別の場所の記憶が蘇り、そのような錯覚を引き起こしたのかもしれない。なにせ僕の頭は一年もの間眠っていたのだ。どんな誤作動だって、全くないとは言い切れない。だけれども、仕方ないと自分に言い聞かせても、胸にわだかまりは残る。
道の先で、小さな光がちらついた。徐々に大きくなっていくそれは、自転車のライトだった。
やがて、悲鳴のようなブレーキの音がして自転車は停まった。僕は丁度、街灯の投げる橙色の光の中にいた。相手は、こちらを見ているらしい。僕の方からは、あと数歩近づかなければ何も見えない。
「向田……?」
耳馴染みのある声だった。
僕を苗字で呼び捨てにする女性なんて、この世に何人もいない。というか一人だけだ。
自転車に乗った佐々木が、橙色の光の中に浮かび上がって来た。
久しぶりの散歩で少し遠くまで足を伸ばしたら道に迷った。そうこちらの状況を伝えると、佐々木はあからさまに溜息を吐いた。
「少し勉強し過ぎたんじゃない?」
「そうかもしれない」
佐々木は自転車を押しながら、僕の隣を歩いている。幹線道路まで一緒に来てくれるというのだ。
「佐々木は、こんな時間まで部活?」
「そう。早く試験前の感覚を取り戻したくて」
うちの高校の校庭には夜間設備が付いている。元々は、遥か昔に甲子園に出場した野球部の練習用に設置された物らしいけど、学校裏に彼ら専用のグラウンドが出来ると、校庭で活動する運動部がその恩恵に与るようになった。僕が部活にいた頃は「お陰で練習時間が長くなった」と嘆く声も聞かれたけど、少なくとも佐々木にとっては嘆きの対象ではなく、助けになっているようだ。
彼女は引退までに自己記録の更新を目指していた。現在の記録は1m58。僕が知っている記録よりも伸びている。「1m60の壁を越えたい」と佐々木は言った。
「あんまり無茶するなよ」
月並みだけど、僕は本心から言った。
「その言葉、そのままそっくりお返しするわ」
たぶん、彼女も本心だったに違いない。
街灯しか明かりのなかった道に、信号が現れた。自動車用のものがずっと青なのを見ると、押ボタン式のものだ。小学生の通学路にでもなっているのかもしれない。
通学路。
そういえば、真っ先に訊いておくべきことがあった。
「佐々木の家ってこっちだっけ?」
カラカラと自転車の回る音が、僅かに遅れた気がした。
「こっちの方が、車が少なくて通りやすいの」
たしかに。さっきからただの一台も、僕はこの通りで車を見ていない。
「女子が一人で通るにはいささか寂し過ぎる気もするけど――」
僕の声は、夜の空気を漂った後、自転車の回る音に絡め取られていく。普段なら打てば弾き返してくるような佐々木が、今日は口数が少ない。練習の後とあっては無理もない。付き合ってくれるという申し出は、断るべきだった。
信号の傍まで来た所で、僕は足を止めた。
「あのさ、佐々木」
カラ、と自転車の音が途絶えた。
「ここまででいいよ。あとは道わかるから。佐々木も早く帰りなよ」
やっぱり信号は押ボタン式で、歩行者信号はずっと赤く灯っている。最近設置されたのか、支柱もボタンも新品の輝きを残している。
ちりん、と鈴の音が聞こえた。
振り返ると、佐々木は赤い光を浴びて佇んでいた。自転車を支えているようでもあり、自転車に支えられて立っているようにも見えた。
「疲れてるのに、ごめん。付き合ってくれてありがとう」
僕が言うと、彼女は頷いた。「わたしの方こそ」と小さく言うのが聞こえた。
それから僕らは、いくつか言葉を交わし合って別れた。佐々木は頻りに僕の身を案じてくれた。あれだけのことがあった僕の、夜道に於ける信用が低いのは当然のことだけど。
闇に溶けていく佐々木を見届けてから、僕も踵を返した。
振り向き様、信号の足元に花が咲いているのが見えた。
いや、咲いているんじゃない。置いてあるのだ。精確には、花が供えられている。それが何を意味する物で、ここで何があったかがわからないほど、僕は御目出度い人間じゃない。
花束の受取人には悪いけど、身震いがした。僕は足早にその場を離れた。
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