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 我ながら軽快だと思う。

 方々から、シャーペンの先が答案用紙を走る音が聞こえる。以前なら気持ちを焦らされるばかりだったけど、今回は違う。僕だって負けていない。みんなのペースに追いついているか、もしかすると先頭を走っているかもしれない。

 全ての答えを書き終え、見直しを二度済ませたところでチャイムが鳴った。

「はい、そこまでー」

 監督の化学教師が言った。答案集めろー、という言葉を掻き消すほどの解放感が教室を満たした。

 僕も例外ではなく、ずっと息を詰めていたかのように大きく息を吐いた。実際、ここ数日間は息を止めているような日々が続いていた。呼吸を止め、身体に力を入れていなければ、踏ん張り切れない気がしたからだ。

「なんかこう、ずっと我慢してた小便が出た感じだな」

 帰り際の昇降口で、喜多君が言った。

「下品ですよ」

 稲見さんは口を尖らせる。

 机の一件があってから、僕らはよく三人で行動するようになった。喜多君の家へ行った次の登校の時に、意外にも稲見さんの方から話し掛けてきたのだ。詳しいところはわからないけど、彼女の中で何かが変わったらしい。短い謹慎が明けて喜多君が再び学校へ来る頃には、僕たちは彼が嫉妬するぐらいには仲良く話すようになっていた。

「それで、試験の出来栄えはどうだったの?」

「それはまあ、アレだな」

 僕の質問を濁し、喜多君は「それより」と話を別に向ける。

「無事試験も終わったことだし、パーッと打ち上げでもしようぜ」

「本当に無事に終わったんですか?」

 稲見さんが眉を顰めるのも道理で、何度かあった三人での勉強会では、喜多君の学力に彼女は唖然とさせられっ放しだった。そして、どうしてうちの学校に入れたのかと頻りに首を捻り、「答案を勘で書いたらたまたま受かった」という答えを聞いて憤慨していた。

「感覚に頼って生きる人間は、いつか必ず破滅します」

 そう言って稲見さんは、喜多君へのスパルタ指導を開始した。それはテスト期間中ほぼ毎日続いたようで、僕が参加できない日には喜多君からの助けを求めるメッセージが毎分のように飛んできた。

 小さなローファーを履いた稲見さんが、くるりとこちらを向いた。

「打ち上げもいいですが、まずは今日の試験の答え合わせからです」

「そんなの答案が戻って来てからでいいだろ」

「今回間違ったところを洗い出して、徹底的に克服するんです。『鉄は熱いうちに打て』です」

「ユッキー……」

 喜多君の縋るような眼がこちらを向く。メッセージを送って来た時も、こんな眼をしていたのだろう。

「ごめん、僕、ちょっと用事が」

 薄情だとはわかっているけど、胸の前で手を合わせる。

「なんだよ、もうテスト終わったんだから勉強はいいだろ?」

「それはそうなんだけど」

「お前、期間中もやたらガリ勉だったもんな」

 全くその通りで、喜多君たちの誘いを断ってしまうことがままあった。勉強をする、という理由はもちろんあった。でも、早く帰らねばならなかったのには、他にもわけがある。

「負けられないからね」

 本当に小さく呟いたつもりだったけど、喜多君の耳には届いたようで訊き返された。

「誰にだよ」

 僕は下駄箱から出したローファーをタイル張りの三和土に置き、右から順に自分の足を滑り込ませた。

「自分に、かな」


 リビングに入ると、台所で母さんが水仕事をしていた。

「ただいま」

 母さんは水を止める。

「あら、早かったのね。テスト、今日までだったんでしょう? お友達と遊びに行かなくてよかったの?」

「力が抜けたら、疲れちゃったんだ」

 僕は肩をすぼめ、台所に向けて進む。

「今、パスタ茹でてるところなの。出来たら呼ぶから、先に着替えてらっしゃい」

「そういえば、トイレの電球切れてるんだっけ? 交換するよ」

「お昼が済んでからでいいわよ。最近のユキちゃん、すごく親切ね」

「そうかな」

 僕は言う。

「あ、何か欲しい物でもあるんでしょう。お小遣い、前借したいの?」

「そんなんじゃないよ」

 そんなんじゃない。そんな簡単なことじゃない。

 尚も疑いを消さない母さんに、僕は続ける。

「というか、僕は前から家の手伝いする方だったと思うけど?」

「んー、小さい頃はそうだった気がするけど――」

 悪戯っぽく口元に指を充て惚けたふりをする母さんの後ろで、鍋から泡が吹きこぼれた。母さんは火を弱めて指し水をした。

「でも、嬉しいわ。なんだか昔に戻ったみたい」

「これからだって僕はこのままだよ」

 こちらに背中を向けた母さんが、フフッと笑った。

 僕はリビングを出ようと踵を返した。振り向きざま、壁際に佇む黒い棺桶が否応なしに目についた。

 電源の入っていないモノリスは、死んでいるように見える。いや、機械なのだから生き死になんてない筈なのだけど、そこから発せられる静けさはそのまま「死」につながっているように感じられる。

 おい、起きるんだ。僕は胸の中でモノリスに語り掛ける。ちゃんと見ていてくれなきゃ困るよ。

 モノリスは何も言わない。いくつも組み込まれているだろう、歯車の一つも動かさない。

 僕は鞄を肩に担ぎ、スリッパを鳴らしながらリビングを後にする。

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