2-13
意外、と言っては失礼だけど、喜多君は火を使った料理を出してくれた。冷蔵庫に入っていた有り合わせの材料で作ったという野菜炒めは、しょっぱ過ぎず油っこくもなく、それでいて箸が止まらなくなるといったものだった。
「まあ、他に飯作る奴がいないからな」
美味しいと伝えると、喜多君は照れを隠すようにそう言った。
食事が終わると張り詰めていたものが緩んだらしく、船を漕ぎ出した稲見さんは早々に布団で寝かされた。僕も失礼して、座布団を借りて寝転がった。
枕もマットレスも掛布団もない寝床なのに、すぐに眠りの中へ潜ることが出来た。次に目が覚めた時にもまだ夜は明けてなかったから何時間も寝てはいない筈だけど、久しぶりに「眠った」という実感を持てた。
部屋の灯りは消えていた。それでも室内は、蒼白い光に照らされている。間接照明かと思ったら、月明かりだった。
月光を取り込む硝子戸の向こうに人影があった。僕は身を起こすと、いつの間にか掛けられていたタオルケットを脇へ置いて立ち上がった。窓枠がサッシを走ると、カラリ、と乾いた音がした。
「寒くないの?」
僕は後ろ手で戸を閉め、喜多君の隣に立った。
「ああ」
喜多君は手すりに凭れたまま言った。
ベランダの向こうには、月に白く縁取りされた夜の世界が広がっていた。アパートの前を横切る夜道では、昼間は太陽によって影を作り出している電柱が、月光を受けて影を伸ばしていた。そして影の持ち主自体もまた、一つの影となっている。昼間と似ているようで、全てが逆転した世界。その光景は「死」の香りを孕んでいるように思えた。
「小学校の時も同じようなことしたんだ」
前を見たまま、喜多君が何の前置きもせずに言った。
「その時は自分の机だったけどな。昔結構いじめられててよ。ほら俺、この通り繊細そうじゃん?」
僕は何も言わず、肩を竦めた。
「ある日、我慢の限界が来て、窓に向けて放り投げたんだ。手ェ切るわ母親呼ばれるわで大騒ぎになったな。おまけに週に一回、カウンセラーのおばちゃんと面談する羽目にもなった」
「いじめは止んだの?」
「無視するっつーのがいじめじゃないとするなら、止んだと言えるな。ま、俺もあんま学校行かなくなったんだけど。そこから中学、高校とクラスの腫れ物として扱われ続け、今に至るってわけよ」
初めて喜多君を見た日のことを思い出す。担任も含めて教室中が、見ると呪われる妖怪でも目にしたような緊張感で満たされていた。
「でも、アレだな。一人でいるのには慣れたつもりだったけど、あんなことした後で、こうやって訪ねて来られると何つーか――」
頭を掻くような音がした。それから、喜多君はいくらか勢いを失った声で、
「ありがとな」
と言った。
僕は咄嗟に返事が出てこなかった。普段の彼とは及びもつかない言葉に感じられた。けど僕は、そんなことを言えるほどまだ喜多君のことを知っているわけじゃない。これから知っていかなければならないのだ。だから、少ししてから、
「こちらこそ」
と言った。それが最適だと思った。
「なんじゃそりゃ」
喜多君は笑い交じりに言った。僕も口元が綻んだ。
「しかし、よくうちがわかったよな」
未だ夜が居座る空の下、始発が動き出している筈の駅に向かって歩く途中で喜多君が稲見さんに言った。
そういえば、と僕も思う。どうして彼女は僕の携帯番号を知っていたのだろう?
「学校のサーバーにクラッキングしたんです」
喜多君の隣を行く稲見さんが答えた。
「クラ……? 何だそれ」
「いわゆるハッキングですね」
事もなげに言う稲見さんとは対照的に、喜多君は「お前、怖っ」とのけぞった。
「でも、すげーな。いっそサイバーテロでも起こしてやるか」
「あんなことは今回だけです」
稲見さんの声がむくれる。
「いい考えだと思うけどな。なあ、ユッキー?」
喜多君がこちらを振り返る。僕は賛成も反対もせず、ただ肩をすぼめてみせた。
その後、駅に着くまで喜多君はテロの計画を練り続けていたけど、結局賛同は得られなかった。それでも彼は楽しそうだったし、しつこく誘われていた稲見さんも嫌ではなさそうだった。かくいう僕も、二人の姿を後ろから眺めながら、ずっとこうしていたいな、とぼんやり考えていた。
喜多君と別れ改札を通ると、電車はすぐにやって来た。土曜の朝の始発電車は人影が疎らで、席は選び放題だった。稲見さんと僕は、誰もいないシートの真ん中に並んで腰を下ろした。
電車が走り出して少しした頃、稲見さんが言った。
「喜多君、思い留まってくれてよかったです」
僕は窓の向こうを見ながら頷く。
「稲見さんのお陰だね」
首を振る気配が伝わってくる。
「わたしは何もしてません。向田君がいたから、喜多君を止めることが出来たんです」
「僕は稲見さんに誘われなかったら、喜多君に会おうとも思ってなかったよ」
向かいの窓の外を、植え付け前の田圃が流れていく。空は白み始め、地上との境界が見て取れる。
「稲見さんは、いなくなってもいい人じゃないよ」
言葉が勝手に口を突いて、外へ出た。
左の頬に視線が当たる。僕は、僕の口は、前を向いたまま続ける。
「さっきの話。いるだけで誰かを不幸にする自分はいなくなるべきだって言ってたけど、それは違うよ。稲見さんは喜多君を救った。それに僕のことも」
「向田君のことも……?」
「うん――」
不意に、目の前が真っ白になった。僕は咄嗟に目を瞑り、それから徐々に開けていった。
朝の光が、田畑も、電車の中も、全てを照らしている。どんな小さな隙間にも夜が残る余地などない、確固たる意志を持った光だ。
今なら、どこまでだって歩ける気がする。
走ることだって出来そうだ。
暖かな陽光を受けた身体には、今までにはなかった「何か」が漲っている。僕は膝の上に置いた手を握りしめた。目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
よし――。
誰もいないリビングには時計と、台所で湯を沸かす電気ケトルの音だけが鳴っている。
母さんも秋津さんも、まだ起き出してくる気配はない。好都合だ。僕はモノリスに手を伸ばし、電源を入れる。
程なくして、テーブルの向こうに〈僕〉が現れた。
『やあ、また君か』
さすが、コンピュータとあって僕のことを忘れてはいないらしい。
「この間の話の続きをしよう。覚えているかい?」
『君が死んだことについて』
忘れてはいないらしいけど、勘違いはしている。ケトルの轟々いう音が耳につく。
「僕は死んでない。たしかにここに存在している」
『君は死んだ。だから僕がここにいる』
「それは君にとって、どうしても譲れない事実のようだね」
『地球に重力があるのと同じぐらい、疑いようもなく当たり前のことだからね』
重力なんて感じないくせに。
「僕たちの間には、越え難い『常識の壁』があるようだ」
ホログラムが、何も言わず見返してくる。
「僕はその壁を越えようとは思わないし、壊す力もない」
『仮にそんなものがあるとして、だったら君はどうするんだい?』
中身の沸騰したケトルが、カチッと音を立てて電源を落とした。
「今にわかるよ」
僕はカウンターを回り、台所へ入った。
湯気を立てる電気ケトルを手に取る。水を満杯まで入れたから、ケトルはズシリと重かった。まるで鈍器でも手にしている気分だ。
僕は、暗がりに佇むモノリスを見据えた。
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