2-12

「おう、辞めちまえ」

「え?」

 稲見さんが声を漏らした。

「あんなとこ、いるだけ時間の無駄だぞ。我慢したって何の足しにもならねえし。お前の才能があれば、どっか他に認めてくれる所があるんじゃねえ? 世界は広いんだ」

「あ、いや……」

 全力で打ち込んだスマッシュを、そのままの勢いで返されたようなものだ。もちろん、心構えなどないから受け止めきれない。稲見さんは目に見えてオロオロし出した。ついにはこちらを振り返り、見紛うことなき助けを求める眼差しを向けてきた。

 やれやれ、と言っては稲見さんが可哀想だ。彼女は十分頑張った。後はどれだけ役に立てるかわからないけれど、僕の出番だ。

「僕からも良いかな?」

 小さく挙手すると、喜多君の眼がこちらを向いた。隣にいる時は感じなかったけど、相対してみると鋭い眼だ。問答無用で睨まれている気がする。

 だけど、怯んでいる場合じゃない。

「僕も稲見さんと同じで、退学には反対だ。やっぱり、どう考えても君が辞める理由はないと思う。それに僕は、また一人で昼ご飯を食べるのは嫌なんだ」

「そういうの平気そうじゃねえか」

 これには結構傷ついた。

「平気じゃないさ。平気なもんか」

「一人でいるのが好きって、顔に書いてあるぞ」

 嘘を言っても仕方ないから、本当のことを言う。

「たしかに、一人でいるのも好きだよ。でも、誰かといるのが嫌いなわけじゃないよ。気の合う相手なら、ずっとだって話していたいと思う」

 これも本音だ。

「俺は『話の合う相手』に入ってたのか?」

「だからこうして訪ねてきたんだ」

「光栄だな」

 喜多君は嘲笑うように言ってコーヒーを啜った。僕は彼が飲み終えるのをじっと待った。

 カップが下ろされる瞬間を見計らって、次の一撃を打ち込む。

「もし君がここで身を引くとして、それは君が、君の言う『つまんねえ連中』に屈したことにはならないかな?」

「はあ?」

 今にもカップが飛んできそうな気配が言葉に込められる。だけど僕は更に一歩、前へ踏み込む。

「君は彼らに呑まれまいと、一人必死で戦ってきた。でも、ここで逃げたら終わりだ。全部なかったことになってしまう」

「逃げてねえよ」

「結果的には同じだよ」

 そう、同じだ。

 喜多君が驚いたような顔をしている。少し語気が強かったかもしれない。

 構わない。言いたいことを言わせてもらう。

「背中を向けることに変わりはない」

 逃げたら何もかも、自分の居場所でさえもなくなってしまう。

 だったらどうする?

 いや、わかってるじゃないか。

 どうすべきかなんてことは、ずっと前からわかっている。

 ただ、それをする勇気がなくて気付かないふりをしていただけだ。

 彼も。

 そして僕も。

「まだ、逃げ出すのは早いんじゃないかな?」

 僕は言った。彼に向けて。自分に向けて。

 喜多君は何も言い返してこなかった。口を半開きにしたまま、豆鉄砲でも当てられたような顔をしている。

 横から、パチパチパチと音が聞こえてきた。見れば、口を真一文字に結んだ稲見さんが、喜多君の方を見ながら手を叩いている。僕への賛同を、喜多君への抗議としてぶつけているのだ。拍手は重く、それでいて着実に前へ進む足取りのような8ビートで、いつまでも続いた。

 やがて喜多君が、金髪頭をボリボリ掻き出した。

「ああ、もう、わかった。わかったから拍手やめろ」

「学校辞めるのやめると言うまでやめません」

「わかった、やめるよ。学校辞めるのやめる。だから拍手やめろ。下、大家なんだよ」

 喜多君が悲鳴を上げるように言うと、ようやく稲見さんは叩いていた手を止めた。それから彼女はこちらを振り返り、眼を輝かせながら深く頷いた。初めて見る、自然な感じのする笑顔だった。

 向かいからは、深いため息が聞こえた。

「なに他人のことでマジになってんだよ」

 言いながら喜多君は、座卓に頬杖を突く。

「他人じゃありません。同じ班の仲間です」

 稲見さんが言った。

 喜多君の逃れるような視線がこちらを向いた。僕は、「誘ったのは君だからね」という想いを込めて見返した。短い舌打ちと共に、喜多君はそっぽを向いた。

「ところでお前ら、ここからどうやって帰るんだ?」

 すっかり冷めてしまったコーヒーを飲んでいると、喜多君が言った。

 僕は腕時計を見た。同時に、稲見さんが「あぁっ」と声を上げた。針はもう十二時を回っていた。

「電車もバスももうねえぞ?」

 どうしたものか。名案が浮かばない、というよりそもそも頭が動かない。自分でも気付かないうちに、色々なエネルギーを消耗していたらしい。俄かに空腹さえ覚えている。

 そこへお腹の鳴る音がした。僕の、ではない。喜多君のでもなさそうだ。漫画みたいに頭を抱えていた稲見さんが、たちまち手でお腹を押さえ、前屈みになった。それでも腹の虫は一向に鳴き止まない。

 頬杖を解いた喜多君が、ニヤリと笑った。

「取り敢えず、何か食うか」

「お願いします……」

 頬を赤くした稲見さんが消え入りそうな声で答えた。

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