2-11

 目的地は、なかなか年季の入った二階建てのアパートだった。

「二階の奥が喜多君の家です」

 扉が荒く閉まる音がして、固い足音が鉄の階段を駆け下りてきた。足音の主は、暗がりでもけばけばしいとわかる、いかにも水商売風の女性だった。彼女は僕たちにぶつかりそうになると「ごめんね」と短く言って、ヒールを忙しく鳴らして去っていった。後には強い香水のにおいと、僕らの驚きが残った。

「……行こうか」

 気を取り直し、僕らは階段を上り始めた。

 二階の廊下の突き当たり、204号室が喜多君の部屋だという。僕たちは無意識のうちに息を潜め、足を忍ばせながら、扉の前に立った。

 稲見さんを見ると、彼女もこちらを見返して頷いた。僕は音符のマークが描かれたボタンを押した。扉の向こうから、コンビニに入った時に流れるのと同じメロディーがくぐもって聞こえてきた。

 靴底が三和土を擦る甲高い音。続いて、鍵の外れる音がした。

「今度は何忘れたんだよ?」

 扉を開けながら喜多君が言った。ここは彼の家なのだから当たり前なのだけど、僕は喜多君の姿を見て少し驚き、それから安堵した。喜多君の方でも驚きはしたようだったけど、続く感情は僕とは違っていた。

「……何だよ」

 先ほどの言葉とは声の調子も向けられる相手も異なっていた。

「少し話があって来たんだ」

「帰ってくれ」

 喜多君は扉を閉めようとする。そこへ、稲見さんが意外な素早さで身体を滑り込ませた。彼女の存在に初めて気付いたらしく、喜多君の動きが俄かに怯んだ。

「話を……聞いてください」

 稲見さんの声は震えているけど、芯が一本通っていた。

「帰れよ」

「少しでいいんです」

「帰れって」

「大きな声、出しますよ?」

 全く理不尽な脅し方だけど、効果はあった。渋々扉を開けた喜多君は、僕たちを中へ招き入れた。

 喜多君の家は、入るとすぐ台所になっていて、奥に畳敷きの居間があった。襖の向こうにはもう一部屋あるらしい。全くもって大きなお世話だけれど、一人で住むにはいささか広すぎる気がする。

 稲見さんと僕は、アパートと同じぐらい年季の入った座卓の前に腰を下ろした。何か飲むかと訊かれ「お構いなく」と答えたのに、喜多君はお湯を沸かし始めた。

 しばらく、薬缶の熱せられる音だけが聞こえていた。

 やがて稲見さんが、僕の気持ちを代弁するように訊ねた。

「喜多君はここに一人で住んでいるんですか?」

 薬缶が沸騰を告げてピーピー鳴り出した。喜多君が火を止める。

「母親と。今は仕事行ってる」

 彼は台所で三人分のカップにお湯を注ぎながら言った。

 カップが運ばれてきた。立ち上る湯気の向こうに、黒い液体が揺れていた。

「何か入れるか? っつっても砂糖しかねえけど」

 僕は首を振り、稲見さんは砂糖を頼んだ。有り難く頂戴することにして啜ったコーヒーは熱過ぎたけど、お腹の底を温めてくれた。

 ようやく喜多君が腰を下ろした。

「で、何だよ、話って?」

 すると稲見さんはコーヒーを掻き回していた手を止め、居住まいを正した。

「退学の話、聞きました」

 喜多君は眉間に皺を寄せながらカップに口を付ける。

「あの……わたしのせいでこんなことになって、本当にすみませんでした。喜多君は何も悪くないです。喜多君が学校を辞める必要なんてないんです。わたし、先生に全部話してきました。先生もわかってくれて、そういう事情なら処分はだいぶ軽くなるかもしれないって言っていました」

「何か勘違いしてるみてえだけどよ」

 喜多君がカップを座卓に置いた。

「別に稲見のために何かやったわけじゃねえから。机投げたのも学校辞めるって決めたのも、あそこにいる連中がマジで嫌になったからってだけだ」

 稲見さんは俯いている。彼女の前に置かれた手つかずのカップからは、まだ湯気が上り続けている。

「だから、ま、俺のことは気にすんな。今日の机のあれだって、稲見の活躍を僻んでる奴の憂さ晴らしなんだから、いちいち気に病むことはねえよ。ああいうことされると消すのが面倒なのが腹の立つところだが――」

「喜多君が……」

 喜多君の声に、稲見さんが無理矢理言葉を被せる。

「喜多君が辞めるなら、わたしも学校辞めます」

 カップから立ち昇る湯気が停まった気がした。

 稲見さんの言葉が、固い決意の中から削り出されたものであることは伝わってきた。

「……は?」

 喜多君が、ようやくの態でそう言ったなら、稲見さんの勝ちだったかもしれない。けれど相手はなかなかの強敵だった。

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