2-10
水銀灯の明かりの中に、稲見さんの姿はあった。
時間が時間なので、彼女は制服ではなかった。けれど、私服だと余計に幼く見える。下手をすると、小学校高学年でももう少し大人びた子がいそうだ。僕は警察の見回りなどに出くわさないことを切に願った。
「こんな時間にお呼びだてしてすみません」
ベンチから立ち上がった稲見さんは、ペコリと音がしそうな動きで頭を下げた。
「僕は全然」
両手を振る。人に頭を下げられるのは慣れていない。
「それより、さっき言ってた『お願い』って?」
稲見さんはお腹の前で手を組み合わせながら、何か言い淀んでいた。それでも意を決したらしく、顔を上げ真っ直ぐにこちらを見た。
「一緒に、喜多君の家に行ってほしいのです」
「一緒にって……これから?」
いきなりだったので、つい間抜けなことを訊いてしまった。
稲見さんは真剣な面持ちで頷いた。
「場所、わかるの?」
「はい」
強い決意に満ちた眼。
「駄目、ですか?」
ここまで来て、今更行かないとは言えない。それに、言わせてもらえない眼差しだった。
学校とは打って変わって、稲見さんはよく喋った。だけどそれは、普段押さえつけているものを解放したというよりは、無理してたくさん言葉を並べているようだった。さして親しくない相手と二人きりになった緊張を紛らわそうとしているのかもしれない。もしくは、呼びつけた相手の周りを沈黙で埋めるのは失礼だと考えているのか。いずれにせよ、彼女が責任感の強い子だということは伝わってきた。
道すがら、僕は稲見さんから職員室へ連れていかれた後の喜多君について聞いた。
曰く、喜多君は退学になりそうとのことだった。けど、退学は学校側から言い渡されたものではなく、喜多君自身が言い出したのだそうだ。つまり、自主退学。予感がまんまと当たってしまったというわけだ。悪い予感ほどよく当たる。
稲見さんは放課後、担任の所へ直談判に行ったらしい。そこで喜多君の話を聞いて、今夜訪ねることにしたのだという。彼を説得するために。
「巻き込んでしまってすみません。でも、一人ではどうしても行き辛くて……お友達がいた方が、喜多君も喜ぶと思いますし」
「友達……」
僕は舌の上で言葉を転がした。外から放り込まれた言葉だと、パチンコ玉のように味がしなかった。
「違うんですか?」
「違わないとは思う……たぶん」
佐々木の前では言い切れたのに、今ではすっかり自信がなくなっている。僕は喜多君の身を案じてはいたものの、何も行動を起こしていない。ただ、少しばかり気にしていただけだ。「友達」を名乗るなら、僕の方がよっぽど直談判に行くべきだった。なんという薄情者だろう。
僕は呟く。
「すごいね、稲見さんは」
「え?」
小さく口を開け、彼女は見上げてくる。
「こんなこと、なかなか出来ることじゃないよ」
けれど稲見さんは首を振る。
「すごいのは喜多君です。わたし、中学でも小学校でも同じようなこと何度もあったけど、今日みたいに誰かが助けてくれたのは初めてでした。普通は関わり合いになりたくないじゃないですか、あんなの」
彼女の言う「あんなの」が具体的に何なのか、僕は知らない。知ろうと立ち上がりもしなかった。僕もまた「普通」の一部なのだ。
「喜多君は、やたらと馴れ馴れしくて鬱陶しいことも多いけど、優しい人です。そういう人が、わたしのせいで不幸になるのは嫌なんです」
稲見さんの声は震えていた。
「いなくなるなら、喜多君みたいな人じゃなくて、わたしみたいな人間なんです。いるだけで誰かを不幸にしてしまう人間が」
一瞬、全てが光に包まれた。大きなトラックが轟音と共に傍を通り過ぎた。
僕らは二人とも足を止めていた。
「すみません、変なことを言っちゃいました」
稲見さんは歩き出した。
「急ぎましょう、もうすぐです」
小さな背中が遠ざかっていく。僕は、なかなか歩き出すことが出来ない。
稲見さんの気持ちは、痛いほどよくわかった。けど同時に、そんな気持ちを抱えることは間違っていると思った。
僕も同じ間違いを犯しているのだろうか?
そうだとして、間違いだと言ってくれる人はいるのだろうか?
それとも僕の場合は、間違いを指摘されようとすることが既に間違いなのだろうか?
僕は夜の片隅に立ち尽くした。
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