2-8

 教室へ入った途端、先に来ていたクラスメイトたちの視線が飛んできた。視線はすぐに解かれたけど、こちらの気持ちは簡単には落ち着かない。

 自席に着くと、教室の雰囲気がいつもよりいくらか強張っていることに気が付いた。原因は、すぐにわかった。人はいるのに話し声が聞こえないのだ。皆、仲の良いグループに分かれてはいるけど、そこに普段の朝のような会話がない。どちらかといえば「普段の朝」を演じているようにさえ見える。

 嫌な感じがした。何が起こっているのかはわからないけど、何かは確実に起きていた。

 やがて、違和感の正体が明らかになった。明かしたのは、稲見さんだった。前の入り口から入って来た彼女は、自分の机を見るなり動きを停めた。固まった、といった方が良いかもしれない。彼女の視線は机の上に注がれていた。間違いなくそこには何かがあった。見た者を凍りつかせてしまうほどの何かが。

 笑い声が聞こえた。目いっぱい声を潜めているけど、確かに笑い声だった。それも、談笑ではなく、悪意を含んだものだった。声の主は、稲見さんの後ろで固まっている女子の一団だ。

 もう一度、稲見さんに目を戻す。すると、彼女が前によろめいた。入り口の前に立っていたせいで、入って来た人にぶつかったのだ。

「おっと悪い」

 ぶつかったのは、珍しくショートホームルームが始まるより前に来た喜多君だった。

「よう、稲見。こんなとこ突っ立ってどうした?」

 喜多君の目も、自ずと稲見さんの机に向かう。そこにあるものを捉える。

 時間が停まったような静けさが、教室を包んだ。クツクツと笑っていた女子たちも、喜多君が現れた途端に口を噤んだ。今なら誰かが唾を飲み下す音さえ聞き取ることが出来そうだ。

 沈黙を作った本人が、笑い声と共にそれを破った。

「何だこれ、くだらねえ」

 言いながら、喜多君は稲見さんの肩を叩いた。

「まあ、気にすんな。こういうことする奴ってのは、どこにでもいるもんさ」

 稲見さんは俯いている。背の高い喜多君が傍にいると、彼女は一際小さく見える。背丈だけの問題ではないかもしれないけど。

「ホント、くだらねえよな」

 呟くような声だったけど、僕の耳にははっきり届いた。

 喜多君がいかにも軽そうな鞄を放った。かと思えば、彼は稲見さんの机の天板を掴むと、前後へ揺すり出した。女子の一団が短い悲鳴を上げながら避難するのもお構いなしに、引出の中身を床に散らかした。

 教科書やらノートやらを全て出してしまうと、今度は机を胸元まで引き上げる。更に、流れるような動きで肩まで抱え上げる。バランスが定まらないことなど気にしていないらしく、喜多君は勢いに任せて窓際まで駆けていく。そして、文字通り身体全体を使って、全ての体重を乗せた机を放り投げる。砲丸や投擲だったら良い線を行ったかもしれない。

 机は窓硝子を破って、破片の滝の向こうへ消えていった。飛び散る硝子片が、朝の光の中で万華鏡のように輝いていた。

 耳を劈くほどの悲鳴、というものは起こらなかった。そればかりか、誰一人として、何も言えずに固まっていた。唯一の例外は喜多君で、前にのめったまま膝を突いていた彼は立ち上がり、手の甲で顔を拭った。硝子片で切ったのだろう、右の頬に赤い筋が浮かんでいた。

 廊下をいくつもの足音が駆けてきた。

 隣のクラスの担任をしている体育教師を筆頭に、男性教諭が何人も雪崩れ込んでくる。彼らは入り口に現れるなり「何事だ」と息せき切って口にしたけど、喜多君の姿を見て早々に事の次第を察したようだった。喜多君はその場で組み伏せられた。

「おら、立て」

 今度は無理矢理立たされる。喜多君は特に抵抗を見せないまま、周りを大人たちに取り囲まれた。現行犯逮捕、といった有様だ。

 殴るように立たされながら、喜多君は稲見さんに言った。

「俺の机、使っていいからな」

 肩を小突かれ、教室を出ていく。入れ替わりに担任が入って来て何か言ったけど、僕には聞こえなかった。

 稲見さんはずっと同じ場所にいた。床に出来た教科書の山を前に立ち尽くしていた。

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