2-7

 学校が以前よりも楽しく感じられるようになったのは、必ずしも家でのことがあったからではないと思う。たぶん、いや確実に喜多君のお陰だ。

 僕は全ての教科書を喜多君に見せた。そのお礼とばかりに喜多君はいくつものバカ話で僕を笑わせてくれた。中身も教訓もない、純然たるくだらない話だ。それがよかった。中には泪が出るぐらいおかしいものもあった。本当は、笑い過ぎで出た泪ではなかったかもしれないけれど。

 しばらくは楽しい学校生活が続いた。

 でも、そんな日々も長続きはしなかった。


 事の起こりは、或る雨降りの朝のホームルームだった。

 担任教師が出欠を取り、諸連絡をした後で、「もう一つ、皆さんにお知らせがあります」と言った。彼女の顔に浮かぶ、溢れ出る嬉しさを隠し切れない、という表情に、僕は言いようのない不安を覚えた。

「稲見さんが部活で作った作品が、全国のコンクールで優秀賞に選ばれました」

 無関心に満ちたざわめきが起こる。僕は稲見さんの方を見た。廊下側の一番前の席で彼女は、ただでさえ小さな背中をより一層縮めていた。

「えーと、稲見さん。これはどんなコンクールなんでしたっけ?」

 言外に起立を促されているのはわかっている筈だけど、稲見さんは俯いたまま動かない。それを担任は「照れ」と読んでしまう。

「実は稲見さん、プログラミングの大会で賞を獲ったんですよ。すごいですねえ。わたしなんか、コンピュータのことさっぱりだから尊敬してしまいます」

 冗談めかした担任の言葉は、そのまま空しく消えてしまえばまだよかった。けれどそれは、生徒たちの目つきを変えた。無色透明の「無関心」だった教室の空気が、はっきりと「警戒」の色を帯びた。

「はい、皆さん、拍手ー」

 壇上から響く十六ビートの拍手に、雨垂れよりも疎らな拍手がいくつか重なった。稲見さんは俯いたまま、最後まで顔を上げなかった。


 昼になっても雨は止まなかった。僕らは屋上に出るのを諦めて教室で食べることにした。

 購買へパンを買いに行った喜多君を待っていると、稲見さんの姿が目を引いた。あの、社会科見学の班割りをした時と同じように、一人でいる彼女は周りから際立って見える。

 妙な言い方だけど、僕は稲見さんに釘付けとなった。彼女が朝のホームルームの時と全く同じ姿で座っていたからだ。限界まで肩を窄めて自分の存在を消してしまおうとしているような背中。授業中もずっと同じようにしていたのだろうか。想像すると、心臓が音を立てて縮む気がした。

 目の前の机に紙袋が置かれた。

「悪い、待たせた」

 見上げると、喜多君が立っていた。彼は自分の椅子を引き寄せながら、

「どうした、ぼんやりして?」

「え、ぼんやりしてたかな?」

「絵に描いたみてえなぼんやりだったぞ」

 すると何か悟ったらしい喜多君は、僕が目線を投げていた方を辿っていった。やがて彼は「へえー」と頷き、下ろしたばかりの腰を再び上げた。こういう時、彼が動物的な勘の鋭さを発揮することを、僕は数日間の付き合いの中で学んでいた。だから「へえー」の意味も理解出来た。

 僕は喜多君に追い縋る。

「何するつもりだい?」

「何って、一緒に飯食いてえんだろ、稲見と?」

「そういうのじゃないよ」

 注目を集めないよう、僕は声を押し殺すように言った。喜多君はお構いなしで、稲見さんの耳にだって届きそうな調子で話す。

「いいじゃねえか、どうせ一人なんだし。取り敢えず誘ってみようぜ。おい、稲見」

 喜多君は僕の手を抜けて、稲見さんの席へ歩いていった。妙なことを言われては敵わないので、僕も向かう。呼び掛けられても尚、稲見さんの様子に変化はなかった。

「一緒に飯食おうぜ」

 稲見さんは、スイッチが切れたロボットのように全く動かない。

「なあ、おい。寝てんのか? てか昼飯食わねえのか?」

 喜多君は前と同じように稲見さんの肩を揺すった。前に何があったかなどすっかり忘れてしまったのか、それとも豪気か。たぶん前者だと思うけど。

「……ない」

 小さく、掠れた声が聞こえた。深い井戸の底から響いてくるようだった。

「はあ?」

 喜多君が耳を向ける。

「……いらない……」

「なんだよ、ダイエットでもしてんのか?」

「喜多君、もう……」

 元はと言えば、この状況を作り出したのは僕だ。僕には収める義務がある。けど、喜多君は生半可な気持ちでどうこう出来る相手じゃなかった。

「お前、凄えじゃんか、賞なんか獲って」

 稲見さんの両肩が僅かに跳ねた。

「プログラミング? だっけ? 俺も全然そっちの方のことわかんねえけどよ、でもやっぱ凄いと思うぜ。俺なんか生まれてこの方、賞なんて獲ったことないもんな。お前、無口で愛想ねえけど、なかなかやるじゃん」

 稲見さんは静かに、椅子の上で身体を九十度回転させた。かと思えば、目にも止まらぬ速さで蹴りを繰り出した。彼女の足が捉えたのは、喜多君の股だった。

「嘘……だろ……?」

 呻くように言って崩れ落ちる喜多君の横をすり抜け、稲見さんは罠を逃れた野兎のような勢いで教室を飛び出していった。

 床では喜多君が両手を腿で挟んだまま悶えていた。僕は二人に、胸の内で謝った。

 それでも、この日はまだ平和だった。

 本当の事件は翌朝起きた。

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