2-5
どう好意的に見ても渋々ながら僕らの班に入ってくれた女子は、稲見さんといった。僕は彼女の名を、黒板に班割りを書く時になって初めて知った。まあ、他のクラスメイトの名前だって殆ど知らないわけだけど。
班が決まったら、次は行動予定を立てる。僕らは稲見さんの席の周りに集まった。待っていても、彼女の方からは来ないからだ。
「スカイツリー行きてえよな、スカイツリー」
呼吸困難から立ち直った喜多君が言った。
「上野からだと遠いよ」
各班に一部ずつ配られた資料を捲りながら、かつての同級生たちも去年、同じ場所に行ったんだな、とふと思った。本当は僕も行く筈だった社会科見学。本当なら一年前に済ませている筈だった社会科見学。
そんなことを考えていたら、向かいからの視線を感じた。見れば、稲見さんの窺うような上目遣いがあった。何か言いたげなので、水を向けてみる。
「稲見さんはどこか行きたい所、ある?」
すると彼女は、野良猫が物陰に隠れるように目を逸らし、
「別に……」
もごもごと言葉を呑んだ。
喜多君とは帰り道も一緒だった。
学校前の停留所からバスに乗る。二年生になって初めて、誰かと一緒にこのバスに乗車した。空いていた二人掛けのシートに僕らは座った。
「やっぱスカイツリー行きたかったなー」
「まだ言ってるの?」
ダメ元で予定表にスカイツリー行きを書いて提出したけど、上野界隈ではないという理由で案の定却下された。結局、予定は殆ど僕が選んだ。博物館や美術館をいくつかと、公園内の神社仏閣を巡るという、不安もなければ面白味もないコース選択だった。
「634mだぞ、634m。ユッキー、そんな場所に立ったことあるか?」
「ないけど」
「そのチャンスが目の前にあるっていうのに、見す見す逃すなんておかしいだろ」
「でも、東京なんて行こうと思えばいつでも行けるよ」
「『いつでも行ける』は『一生行かない』と同じだ。呑気なこと言ってるうちに、気付けば人生終わりなんてことになりかねねえぞ」
たしかに。人生なんて、いつどんな拍子で終わるとも限らない。それはたぶん、彼より僕の方が切実に知っている。
やがてバスは、喜多君の降りる停留所に着いた。
「じゃ、また明日な」
そう言って喜多君は席を立った。
また明日。明日も会おうという約束。明日も存在していて良い理由。
「……うん、また明日」
ややあってから、僕は言った。
何人かの客を降ろし、バスはブルンと震えて再び走り出す。僕は窓ガラスに寄り掛かり景色を見ながら、「また明日」という言葉を口の中で何度も繰り返した。何度も、何度も、自分の胸に刻み付けるように。窓の向こうに見える風景は、夕日を受けて眩しいほどに輝いていた。
門の前で足が止まった。
僕は、見慣れた我が家を仰ぎ見た。夕焼け空の下、黒々と影を纏ったそれは、童話や何かに出てくる魔女の棲家を思わせる。屋根に止まった鴉が、更に雰囲気を色濃くしている。
また明日。その「明日」を迎えるためには、この門をくぐらなければならない。「この門を過ぎんとするものはいっさいの望を捨てよ」。漱石がロンドン塔で見た言葉は、僕の家の門にも彫っておくべきだと思う。
僕は一度深呼吸すると、足の裏から伸びた根を断つような気持ちで門を入った。
親指をノブに充て、玄関のロックを解除する。入ると、人の気配がなかった。母さんは出掛けているようだった。買い物だろう。好都合だ、という思いと、いてくれた方が良かった、という思いが交互に押し寄せた。
薄暗いリビングに於いて、モノリスは一際黒さを放っていた。そこだけ四角い闇が口を空けているようだ。僕はソファーに鞄を置くと、モノリスの前に立った。
手を伸ばし、スイッチと思しきボタンを押し込む。途端に仰々しいまでの機械の駆動する音が鳴り出した。家を揺らすような唸り。棺桶のような黒い箱が人型に変形するのではと思ったほどだ。
変形こそしなかったものの、モノリスは人間の像を映し出した。僕の後ろには、もう一人の僕が立っていた。
〈僕〉が微笑んだ。
『こんにちは。あなたは、誰?』
僕のデータは登録されていないのだ。僕は唾を呑み下してから、
「僕は、向田行人」
と名乗った。
『ムコウダ・ユキト……』
相手は考え込むように黙った。
少ししてから、彼は言った。
『僕と同じ名前だ』
「僕が君と同じなんじゃなくて、君が僕と同じ名前なんだ」
声が上ずりそうになるのを堪えた。
『君は僕に似ている』
「君が僕に似てるんだ」
わからない、とばかりに〈僕〉は首を振った。僕はまたしても眩暈に襲われた。
「君は単なるAIだ。本物の僕は、今ここにいる生身の人間だ」
『人間である向田行人は死んだよ。だから僕がここにいる』
「僕は死んでない」
『死んだよ。僕は死んだ人間の向田行人に代わって、母さんを支えるためにここにいる』
「きっと何かの手違いがあったんだ。とにかく、僕がこうして戻った以上、君の役目は終わりだ」
『君に僕の活動を決定する権限はないよ。君は部外者だ。僕の偽物だ』
僕は下唇を噛みしめた。だけど、やがて或ることを思いついた。
「わかった、じゃあこうしよう。君のする質問に、僕が答える。君は僕の記憶を使っているのだから、僕にはもちろん答えられる。これで僕が本物だと信じてくれないか?」
『初めて買った本は?』
突然質問が飛んできた。
「『エルマーの冒険』」
『好きな猫の毛色は?』
「茶トラ」
『中学二年の二学期の中間テストの数学の点数は?』
「91点」
『1500m走の自己ベストは?』
「四分九秒二九」
飛んできた球は、一拍も置かずに打ち返した。全て自分のことなのだから、考えるまでもなかった。
ホログラムは口を噤んだ。
「納得してくれたかな?」
相手は唇を結んだまま、じっとこちらを見てくる。考え込んだり、僕を値踏みする、といった意志は感じられない。ただ眼差しを向けてくるだけだ。
だけど沈黙は、不意に破られた。
『初恋の相手は?』
思いがけぬ問いに、僕は言葉に詰まった。
『わからないのかい?』
「そんな人、いないよ」
『そんな筈はない。僕にはちゃんとわかっている』
「へえ。誰だい、それは?」
〈彼〉が誰について言っているのかわからない。なのに僕の鼓動は早まっていく。
『君が「本物」を名乗るなら、わからない筈はないのだけど』
正体不明の緊張が、背中にのし掛かってくる。いや違う。僕はその緊張が何なのか知っている。
唇を開く。声を振り絞ろうと試みる。
その時、玄関が開錠される音がした。ドアが開き、ビニール袋の擦れる音と共に「ただいま」の声が聞こえてきた。母さんだ。スリッパを突っかけ、リビングへ向かってくる。
パタパタという足音を、僕はもう一人の自分を見つめたまま耳にした。相手もこちらへ目を向けたまま動かない。穏やかな表情だけど、やはり意志というものは感じられない。口元にはうっすらと笑みが浮かんでいるように見える。そういう設定なのか、それとも僕を追い詰めたことで生じた余裕からなのかはわからない。
僕は歯を食いしばった。
母さんがリビングに入ってきた。
「ただいま。スーパーで手芸教室の先生と会ったらすっかり話し込んじゃって。遅くなっちゃった」
「おかえり」
僕は振り返り、母さんを迎えた。
「あらユキちゃん、まだ着替えてないの?」
「僕も今帰って来たんだ」
「すぐごはんにするから、手洗って着替えてらっしゃい」
母さんはキッチンへ入っていく。
「制服、皺になっちゃうわよ?」
「うん」
僕は頷いた。それから、誰もいないダイニングテーブルの向こうを見やった。後ろではモノリスが、突然電源を落とされたせいなのかパキパキと金属を軋ませるような音を立てていた。
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