2-3
二限目は体育だ。
男子だけになった教室で着替えようとしたら、キタ君が声を掛けてきた。
「さっきは悪かったな。お陰で助かった」
「いいよ、あれぐらい」
僕はシャツを脱ぎ、体操着を着る。下もハーフパンツに履き替える。ズボンを畳みながら隣を見れば、キタ君はやはり机で腕組みしている。
「着替えないの?」
思わず訊いてしまった。
「今日、体育あるって知らなくてよ」
周りは皆、着替えを済ませてさっさと教室を出ていく。着替えもせず、時間割も知らない人間などと関わり合いになって堪るかというように。
僕は改めてキタ君へ目を向けた。
腕組みしているその姿には、ふてぶてしいものがある。けれど見ようによっては、外界からの衝撃に備え、身を固くしているようでもあった。
「この恩はいつか必ず返すから」
僕の背中で海老反りになりながら、キタ君が言った。
「別にいいよ」
今度は僕が反る番だ。背中の下にあるキタ君の身体が纏っているのは、僕のジャージだ。
「そういや自己紹介まだだったな」
それぞれにストレッチを始めた時、彼が言った。
「俺は喜多、喜多寅之助。キタは方角のやつじゃなく、『喜び』が『多い』と書いて喜多だ。まあ、喜ばしいことなんてそれほどないんだが」
「僕は向田。向田行人」
「向田……フム」
僕の噂を知っているのかもしれない。
「じゃあ、ユッキーだな」
「へ?」
漫画みたいな声が出た。いや、漫画よりよっぽど間抜けな声だった。
「『あんた』じゃ味気ないから、『ユッキー』と呼ばせてもらうぜ。隣同士、これからよろしくな、ユッキー」
「ああ、うん」
頷く以外の行動が思い浮かばなかった。けど、嫌な気持ちはしなかった。
今日の体育はソフトボールとのこと。僕と喜多君以外の男子たちは速やかに二チームに分かれて試合を始めた。まだ激しい運動の出来ない僕は見学しようと思ったけど、どちらのチームにも所属していない喜多君からキャッチボールに誘われた。まあそれぐらいなら、と応じることにした。
「身体、どっか悪いのか?」
どうやら喜多君は、僕の事故のことを知らないらしい。
「病み上がりなんだ」
そう言って、僕はボールを投げ返す。
「へえ。そういや少し顔色が悪いかもな」
ボールが返ってくる。
「そうかな?」
ボールを投げ返す。
「ああ。ちゃんと飯食って、寝た方がいいぜ」
重めの返球が来た。
「そうするよ」
ところで、と僕も少し力を込めて投げる。
「喜多君はどうして学校休んでたの?」
「あ、それ訊いちゃう?」
軽い返球。
「話したくないなら別にいいんだけど」
こちらも軽く投げようとしたら、すっぽ抜けてしまった。
「何だよ聞けよ」
喜多君は大きく腕を伸ばしたけど、ボールは彼のグラブを弾いて後ろへ行ってしまった。
「ごめん」
ボールを取って戻って来た彼に謝ると、問題ないと手で制された。
「まあ、わざわざ話すほど大した理由もないんだけどな。簡単に言えば、学校が嫌になったんだよ。どいつもこいつもつまんなくて」
グラブが甲高い音を立てるほどの速球が来た。僕が取ったというよりは、こちらの構えた所へ喜多君が収めた、といった方が近い。
「その頭は、社会への反骨の象徴か何か?」
返球。左手は痺れたままだ。
「難しい言葉はわかんねえけど、まあ、そんなところだ」
今度は優しい球が来る。
「格好いいね」
投げ返しながら、お世辞抜きに僕は言った。
「だけどそんな奴が留年にビビッて授業に出てきた」
自嘲気味な声と共に、ボールが飛んでくる。
「一年余計に過ごすなんて耐えられない?」
我ながら、上手く投げられたと思う球だった。
「地獄だぜ」
喜多君はボールを捕ると、肩を竦めた。
「わかる気がする」
僕はボールをキャッチする。
「けどまあ、ユッキーみたいな奴がいるなら別だけどな」
嬉しいことを言ってくれる。僕は「どうも」と言って投げ返す。
「もっと早く出会っときたかったぜ。去年、何組にいたんだ?」
きっちり胸元に来るボール。一方僕のは、右へ左へと落ち着かない。
「二組だよ」
「ん? あれ?」
悪球をこともなげに捕った喜多君は眉を顰めている。
「俺も去年、二組だったぜ。ユッキー、いたっけ?」
「おととしの話だよ」
「はあ?」
またすっぽ抜けてしまった。戻って来た彼に謝ると、やはり手で制された。
「ということは――どういうことだ?」
当然の疑問だ。今までしっかり胸元に来ていた球が初めて左に逸れた。
僕は何も言わずに返球した。胸の内では、入院のことを喜多君に話すと決めていた。どうせいつかはわかることだ。「これから」があるのなら、他人の流した噂が耳に入る前に自分の口から告げておきたかった。
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