2-2

「それでは、社会科見学の参加票を集めます」

 朝のホームルームの終わりしな、担任の女性教師が言った。良くいえば若々しい、悪くいえば貫禄のない彼女の言葉には、学級委員のような生真面目な響きがある。

「後ろから前の人に回してください」

 教室中が素直に従う。肩越しにプリントを差し出され、僕もその上に自分の参加票を重ねて前へ渡す。保護者のサインは結局、今朝もらった。

 朝の母さんはいつも通りだった。昨晩のことを僕に見られたとは気付いていないらしかった。完全にそんなことなどなかったように振る舞うので、こちらも何も訊くことができなかった。真っ白い壁に、わざわざ泥団子を投げつけるような真似に思えた。

 全員分の参加票を集めた担任が教卓で紙束を整えていると、教室の後ろのドアが不意打ちのようにカラリと開いた。自ずと、室内にいた全員の視線がそちらへ集まった。

 ドアの所に少年が立っていた。

 制服を着ているから生徒なのだろう、その少年は金髪だった。それも生半可な金ではなく、ほとんど白に見えるぐらいに明るい。進学校とはいわないまでもそこそこの偏差値を誇るので、この学校にはいわゆる「不良」がいない。周りは全員黒髪だ。だから目立つどころの騒ぎではなく、幻の一角獣が現れたような衝撃があった。

「あ、えっと……」

 担任の上ずった声を掻き消すようにチャイムが鳴った。金髪の彼は注目も諸共せず、教室に踏み込んできた。

 こちらへ来る。身体が咄嗟に強張った。あろうことか、僕の隣の席が教室内で唯一の空席だった。そこは学期始めからずっと空いていた。位置的に余った机を置いているのでないとはわかっていたけど、誰の席かまでは知らなかった。

 尤も、席の主を知らないのは僕だけのようで、周りでは次第に潮騒のような囁きが湧き始めた。

「キタ」

「キタだ」

「キタがキタ」

 とりあえず何かが「来た」のはわかったけど、肝心の名前がわからない。そうこうしているうちに、金髪の彼は案の定、僕の隣の空席に鞄を置き、どっかと腰を下ろした。

「ホームルームには間に合いましたよ、センセイ」

「あ、ええ、はい。キタ君出席、と」

 担任はタブレットに指を走らせる。遅刻だろ、という抗議は誰もしない。そればかりか、教室内の誰も動こうとしない。一限目まであと五分を切っているというのに。責任を感じたのか、担任が沈黙を割いた。

「キタ君、社会科見学の参加票……」

「何すか、それ?」

「先週、おうちに送ったんだけど……」

 すると金髪の彼は舌打ちし、

「あいつ、捨てやがったな」

 舌打ちの矛先が自分に向いているのではないとわかっても尚、担任は竦み上がっていた。

「あ、ないならもう一枚用意するので……」

「すいません、お願いします。つーか、参加します。それも行かないと単位くれないんでしょ?」

「え、まあ、そうなんですけど……」

 担任の語尾は、一限目開始を告げるチャイムの向こうに消えた。何も知らない英語の教師が入って来ようとしたけど、教室の只ならぬ空気に入り口の所で立ち止まった。


 授業が始まっても、「キタ君」は異様さを放ち続けていた。彼は腕組みしたきり何もしないのだ。そもそも、机の上には教科書もノートも見当たらない。辛うじてペンケースだけは置かれているけど、開けられる様子はない。

 周りはみんな、彼を見ないようにしている。教壇に立つ英語教師も同じで、注意することも窘めることもせずに授業の「通常運営」に努めていた。

「えっと、じゃあ、ここの文章を誰かに読んでもらおうかな。今日は二十一日だから、二十一番――と見せかけて二+一に更に四月の四を足して七番にしよう」

 英語教師は場を和ませようとしたのだろうけど、それが裏目に出た。

 七番はキタ君だった。

 英語教師が「アッ」と声を漏らした。パーティー会場だと思ってドアを開けたらマフィアが拷問している現場に遭遇した、というような顔だ。だけど、開けてしまった以上は今更戻ることも出来ない。英語教師は無理矢理笑みを拵えた。

「じ、じゃあ、キタ君」

 呼ばれたキタ君は、当然と言えば当然だけど、腕組みしたまま黙っている。

「……キタ君?」

「教科書、買ってないんですけど」

 今学期が始まって初の登校であれば無理もない。

「じゃあ、誰かに見せてもらって」

 教室中が顔を顰める音が聞こえるようだった。特に「キタ君」に席を隣接する生徒たちは露骨で、いきなり板書を始めたり、教科書で顔を隠したり、突っ伏して眠りに入ろうとしたりと、どうにかキタ君から遠ざかろうと必死になっていた。

「なあ、あんた」

 声を掛けられたのは僕だった。

「教科書、見せてくれねえか?」

「うん」

 僕は頷いて、教科書を渡した。そうする他なかった。

 キタ君の英語はお世辞にも上手いとは言い難く、「somewhere」を「ソメウェレ」と読んでいたし、「Susie」を「スシエ」と言っていた。これを別の誰かがやったのなら、所々でクスクス笑いでも起きるのだろうけど、教室は皆が息を止めているのではと思うほど静まり返り、ただキタ君の覚束ない英語だけが訥々と響いていた。

 クラスメイトたちが作り出す沈黙はしかし、「笑うとキタ君が怖いから」といったものとは違った。臭いものの周りで鼻をつまんでいるような、そんな類のものだった。

 一頻り英文を読み終えたキタ君は着席した。閉じた教科書が僕の元へ戻って来た。

「ありがとな」

 小さくそう言ったキタ君の口元には、笑みが滲んでいた。この教室で初めて誰かに笑いかけられたことに、僕はしばらくしてから気が付いた。

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