1-7

 佐々木にも言った通り、一人で過ごす教室での生活にも哀しいかな段々と慣れていった。誰に気を遣われることもなく、遣うこともない生活は楽だった。こんなこと佐々木が聞いたら怒られるかもしれないけど、僕にはやはり、こういう方が向いているのかもしれない。

 休み時間が来るたびに、文庫本を取り出してページを繰る。昼休みには屋上に出てパンをかじる。時々昼寝をする。

 単調な生活だ。人と関わらないから、特に大きなトラブルも起こらない。もちろん喜びもないのだけれど。全ての日々が型抜きしたように画一的で、一昨日と先一昨日が入れ替わっても気付かないように思える。そればかりか、昨日と今日が入れ替わっても、そのままやり過ごしてしまうかもしれない。

 もしも、と帰りのバスに揺られながら考える。もしも、あのまま目を覚まさなかったら。

 もしも、あのまま死んでいたら。

 母さんは泣くだろう。佐々木も或いは。でも他に、誰かが哀しんだりするだろうか。僕は窓に凭れたまま目を瞑り、自分のいない「今」を想像してみる。恐ろしくしっくりと、全ての物事がすんなり運ぶように思えた。誰も傷つかず、不快感も覚えずに済む毎日。悪くない。

 停留所でバスを降りると、四月にしては冷たい風が吹き付けた。夕日が当たりを橙色に染め、影をくっきりと炙り出していた。電柱、バス停の表示、放置自転車。どれもが黒々した影を伸ばしている中で、僕だけは影を持っていない気がして振り向いた。

 当然、影は足元から伸びている。僕は、自分を馬鹿だと蔑むより先に安堵した。


 夕飯はカレーだった。

 市販のルーを使っているのに、カレーという料理にはその家の「味」が出る。外では決して味わうことは出来ない、懐かしさに紐づけられたものだ。美味しいとかそうじゃないといった価値観は関係なく、味覚を突き抜けて記憶に揺さぶり掛けてくる効果がある。

 退院してから初めて食べる家のカレーはしかし、僕の記憶に的中はしなかった。当たりはしたものの、中心からはズレていた、といった感じだ。

「ルー、変えた?」

 僕は向かいに座る母さんに訊ねる。

「え? 変えてないわよ。うちはおばあちゃんの頃からずっと同じ味よ」

「そう……」

 入っている具も変わらない。昔のままだ。でも、何かが違う。知っている場所なのに、どこかが違う部屋に入った感覚。丁度、退院して久しぶりにこの家に帰って来た時も同じ感覚を味わった。

「美味しくない?」

 母さんの匙が止まる。

「いや」

 僕は小さく首を振る。

「舌が味を忘れちゃったのかもしれない。すごく久しぶりに食べたから」

 そう言って、一匙すくって食べる。口の中に広がる味と、記憶の中のそれをどうにか同期しようと咀嚼する。

 ややあって、母さんの口元が綻んだ。

「それなら安心して。たくさん作ったから、明日も明後日も食べられるわよ」

「それなら嫌でも思い出せるね」

 僕たちは声を合わせて笑った。

 ふと、母さんの後ろで聳えるように佇むモノリスに目が行った。黒い直方体が、ジッとこちらを見ている気がしたのだ。目玉なんてどこにも付いていない筈なのに。


 課題を切りの良いところまで進め、手を止める。

 時計は十一時を過ぎたところだった。僕は椅子を軋ませながら伸びをした。一息ついてぼんやりしていると、そういえば、と思い出したことがあった。今日、ホームルームで社会科見学の参加票を配られたのだ。

 社会科見学といっても、要はただの遠足だ。一年生の時は遊園地に行った。二年生はたしか東京見物だ。

 何故そんなことを今思い出したかというと、保護者のサインが必要なのだ。僕は鞄から取り出した紙に署名し、それを持って部屋を出る。今、サインを貰わなければ、朝の慌ただしさと落ち込みがちな気分の中では忘れてしまいそうだった。

 階段を下りると浴室で音がした。仕事から帰ってきた秋津さんが風呂に入っているのだろう。

 リビングの明かりが点いている。母さんはまだ起きているらしく、話し声が聞こえる。

 電話だろうか? こんな夜遅くに? 母さんが長電話する姿などこれまで見たことがないから、想像するにしても像が上手く結べない。リビングへ進むのを躊躇してしまう。いやに低められた囁き声が、誰かが来るのを拒んでいるように思えてならなかったのだ。

 それでも僕は踏み出した。怖いもの見たさ、のような気持ちもある。けど、それよりもっと大きく胸の内を占めていたのは、ここで逃げたらずっと母さんに陰を感じることになる、といった意地のような心だった。

 開けっ放しになったリビングのドアを潜る。敷居を跨いだ所で僕の足は止まった。喉が塞がり、声が出なくなった。

 母さんは、こちらに背を向けダイニングテーブルに着いていた。電話などではなく、その手はテーブルの上で組み合わされていた。けれども、たしかに誰かと喋っていた。声を潜めて、秘密の会話を囁き合うように。

 その相手は、母さんの向かいに座っていた。秋津さんではない。秋津さんは今、風呂場にいる。秋津さんであったなら、どれだけ良かったろうか。

 母さんの向かいには、僕が座っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る