1-5

 目を開けた時、辺りはまだ暗かった。

 ベッドサイドに置いた筈の携帯電話を手探りで捜す。見つける。画面には『AM01:53』と表示された。

 喉が渇いている。寝汗もすごい。余程悪い夢を見ていたのかもしれない。今では内容は愚か、夢を見ていたか否か、というところまでも定かではないけど。僕は掌で顔を拭い、ベッドから抜け出した。

 フローリングは床暖房が効いているものの、スリッパの着用は我が家の義務だ。僕はもう慣れたものだけど、秋津さんは時々履き忘れて母さんに叱られていた。こんなどうでもいいことを思い出すのは、まだ頭が半分眠りに浸かっているせいかもしれない。階段を下りながら大きく欠伸をすると、少しだけ頭が冴えた気がした。

 真っ暗な台所で、擦りガラスから入るおぼろげな月明かりだけを頼りにコップを探す。水切りかごに一つ入っていた。冷蔵庫を開けると室内灯の光に目が眩んだ。顔をしかめたまま僕はミネラルウォーターを取り出し、コップに注いだ。

 冷たい水が喉に沁みわたっていくようだった。一息ついてコップを濯ぎ、水切り籠に戻す。落ち着くと、にわかに寒さが蘇ってきた。

 部屋に戻ろうとした時、リビングの方から音がした。カチッという、固く無機的な音だった。一度であれば空耳として片づけられる程度の微かなものだったけど、その後に何かが駆動し始めるような仰々しい機械音が続いたので、気のせいじゃないとわかった。

 冷蔵庫のコンプレッサーが入った音に似ていた。でも、冷蔵庫はいま僕の傍らにあり、この冷えた台所にあってはわざわざ庫内を冷やすために何かを起動させる必要もないとばかりに沈黙を守っている。リビングで唸るような音を出している何かは、全く別の物であると見て間違いない。

 僕はスリッパでフローリングを擦りながら、音のする方へ向かった。途中、ダイニングテーブルの椅子に足をぶつけた。久しぶりのせいか、暗いと物の位置が把握しづらい。

 痛みで歪んだ視界の中に、明滅する黄緑の光を見つけた。カリ、カリ、とリスが木の皮を削るような音もする。段々と目が慣れてくる。ぼんやりとだけど、音の正体が闇の中から浮かび上がってくる。

 モノリス。

 僕は頭の中で呟いた。いや、実際に声に出していたかもしれない。

 黄緑の明滅は、まるで手招きしているようだった。僕はまんまと引き寄せられていく。この姿を傍から見たら、ついさっきまで水飲み場を巡って威嚇し合っていたサルが未知の物体に近づいていく時のそれに似てそうだ。そう、僕は何も知らないサルなのだ。

 唸りに聞こえるのは冷却ファンを回す音らしい。手を伸ばし、触れてみると、モノリスの表面は微かに温かい。ただし「温もり」という優しいニュアンスは皆無で、怪物の胎動めいたものがそこには感じられた。

 急に動き出したのはどういうわけだろう? 秋津さんが仕事を始めたとは考え難い。二階の、かつては父さんの書斎だった部屋には誰もいなかった。

 平坦な表面に指を滑らせていくと、ボタンのようなものに行き当たった。電源、と直感的に思った。目立つ位置にあるボタンといえば、それぐらいしかない。

 何故だか、押してみようという気持ちが湧いた。

 後ろで、寝室とを隔てる引き戸が開いた。蛍光灯の白い光が、モノリス諸共僕を照らす。

「ユキちゃん? どうかしたの?」

「いや……」

 振り向きながら、ボタンを押そうとした手を引っ込める。秋津さんが仕事で使う機械なのだ、これは。僕が触って良い道理はない。

「水飲みに来たら、急にこの機械が動いたから。何かと思って」

「ああ、これね」

 母さんはスリッパを突っかけて出てくる。秋津さんはどうしたのか。起きているのか寝ているのか、目が眩んでよく見えない。

「時々、夜中になるとデートするのよ」

「デート?」

 少し考え、合点がいく。

「ああ、アップデート」

「そう、それ。お母さんも始めは驚いちゃった。夜中に急に動き出すんだもの。おばけが出たんじゃないかって思ったわ」

「おばけといえば、たしかにこいつはパソコンのおばけだね。こんなに大きいの、普通の家にはないよ」

 改めてモノリスを仰ぎ見る。母さんは何も言わなかった。

 黄緑の明滅はやがて、瞼を閉じるように暗くなった。音もピタリと止んだ。「今日の目的は果たした」という達成感が、空気を辿って伝わってきた。

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