1-4

 どれぐらい寝たのだろう。僕はうつ伏せのままだった。

 手探りで携帯電話を見つけ、時間を確かめる。三十分も経っていない。

 急に靴下が煩わしく感じられ、仰向けになって脱ぎ捨てた。一息吐く。たったこれだけの動作でも、今の僕には難儀なのだ。

 天井を眺めていると、初めて家に帰って来たという実感が湧いた。入院する前は天井なんて見ても何も思わなかった筈だけど、ここだけは前と変わらずに、懐かしいという気持ちを僕の中に呼び起こしてくれる気がした。

 視界の隅に、黒いものが映った。気のせいかと思ってそちらを見やると、確かにそれは存在した。

 監視カメラ、と咄嗟に思った。だけど、形は似ていても肝心のレンズの部分が違う。ディスコにぶら下がっているミラーボールを半分に切ったような物が被さっている。あくまで雰囲気からの想像だけど、何か光を照射する機材に見える。

 同じような物を、最近も目にした覚えがある。

 というより、ついさっきの話だ。

 リビングにあったモノリス。僕の部屋の天井の隅に設置された用途不明の機材は、あの墓標のような塊と同じ色をしていた。


 結局、夕飯はすき焼きだった。

「たくさん食べて、栄養つけないと」

 立ち上る白い湯気の向こうから、母さんが言った。

「ユキちゃんの好きな白滝もたくさんあるからね」

 小さいころの僕は何故だか白滝が好きだった。割り下と白滝と生卵があれば、僕の中でのすき焼きは成立していた。安上がりな嗜好だ。

「それは昔の話だよ」

「昔だなんて――お母さんにとってはついこないだのことよ」

 母さんは目を細める。それから僕に、肉を取り分けてくれる。もちろん白滝も。

「ありがとう」と言って取り皿を受け取ろうとしたら、母さんは皿を離さなかった。何かと見れば、母さんは湯気の向こうで俯いていた。

「もう、こんな日が来ないかと思った」

 声が震えている。

「二度と、ユキちゃんとごはん食べることなんてないんだと思ってた」

 クツクツと、割り下の煮える音だけが場を満たす。

幸恵ゆきえ

 ビールの入ったコップを手にしたまま、秋津さんが呼びかけた。母さんはハッとして取り皿から手を引いた。

「ごめんね。ユキちゃんの顔見てたら、お母さん、なんだか嬉しくなっちゃって」

 両の眼尻を拭いながら、母さんが言う。

「これからはイヤでも毎日見ることになるよ」

 僕は冗談のつもりで言った。以前であれば、「そうね」と肩を竦めて笑ってくれる筈だった。

 だけど今夜は違った。

 母さんたちの言葉が途切れたのだ。というより、二人は明らかに何かの意志を以て黙った。まるで、上から見えないベールでも掛けられたみたいだった。

 それは本当に一瞬のことだったから、僕の気のせいと言えなくない。でも僕は、それを単なる錯覚としては処理できなかった。違和感はそのまま、僕の喉元に留まり続けた。

「あ、そこのお肉も良いみたい」

 母さんは言った。何かを埋めた壁を塗り固めるような言い方だった。

「後で食べるよ」

 そう言って僕は、具がてんこ盛りとなった取り皿に向かった。生卵が絡まった白滝を啜りながら、母さんの顔を確かに過った表情の正体を見極めようと努めた。だけど上手くはいかなかった。


 思えば久しぶりの満腹だった。食事を終え、ソファーに沈むと、たちまち動くのがイヤになった。

「コーヒーとお茶、どっちにする?」

「じゃあ、コーヒー」

 僕が母さんに答えると、秋津さんも「同じのを」と頼んだ。

「僕のは砂糖とミルクをたっぷりとね」

「砂糖は太るからいけません」

 母さんは台所へ向かった。たしかに秋津さんは、以前よりふっくらした印象がある。

 うちはインスタントコーヒーを飲まない。「コーヒーを淹れる」と言えば本式に、豆から挽いてドリップするのだ。だからミルの音が耳に馴染んでいる。粉を入れたフィルターに湯を注ぐ時、ふわりと漂ってくるにおいも鼻が覚えている。

「なあに、眠たくなっちゃったの?」

 母さんから、湯気の立つマグカップを渡される。いつの間にか目を瞑っていたらしい。

「久しぶりにこんなに食べたから」

 砂糖とミルクも差し出されたけど、断った。

「まだケーキがあるわよ」

「明日でいいよ」

 コーヒーを啜っていると、天井の隅にぶら下がる黒い機材が目についた。僕の部屋にあったのと同じ物だ。

「ねえ、あれ何? 僕の部屋にもあったんだけど」

 後ろのダイニングテーブルで、母さんと秋津さんが僕の示す方を見た気配が伝わってくる。だけど答えはすぐには返ってこなかった。

「あれはね」

 口を開いたのは秋津さんだった。

「照明なんだ。知り合いにインテリアデザイナーをしている男がいてね。そいつがどうしても使ってほしいというものだから、仕方なく付けてみたんだよ。あまり使い勝手が良くなくて、今じゃ全く点けてないけどね。行人君の部屋にも無断で点けてしまって悪かったね。目障りなようなら、すぐにでも取り外すよ」

「いえ、大丈夫です」

 僕は言った。

「ただ、何なのか気になっただけなんで。僕は全然構いませんよ」

「そうかい?」

 張っていた糸が緩んだように、秋津さんが言った。

 温かいマグカップを手で包みながら、背もたれに頭を乗せ、僕は目を閉じた。

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