1-3
隣町の総合病院から、家へ戻る。
窓から見える景色は、普段であれば田畑がどこまでも広がっているのだけど、今日はすっかり雪原となっている。それでも寒々しい印象はない。むしろ普段の冬の、空っ風に吹き付けられるまま土が剥き出しの時の方がよほど見る者の心を寒くする。
「国境の長いトンネルを抜けると――」
不意に、現国の時間に読んだ『雪国』の出だしが浮かんできた。僕はそれを、口の中から出ないようにして諳んじる。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった――」
いつの間にか曇っていた窓を擦る。濡れた強化ガラスの向こうには、やっぱり「雪国」が広がっている。
同じだ。僕も、長いトンネルを抜けてきたのだ。
「ユキちゃん、今晩、何食べたい?」
助手席の背もたれの陰から母さんが顔を覗かせた。
「何でもいいよ」
「何かあるでしょ。病院では食べられなかったものとか」
「肉が良いんじゃないかな。焼肉とか」
ハンドルを握る秋津さんが言った。
「ダメよ、におい着くから」
「少しぐらい構やしないよ」
「ダメ。我が家はくさいの禁止です」
「これじゃ病院と変わらないね」
秋津さんがバックミラー越しに苦笑を向けてくる。僕も笑みを返す。
そのまま夕飯の話はどこかへ行ってしまった。僕は前の二人の会話の向こうに聞こえる、カーステレオの音に耳を澄ませた。車内にはずっと、クラシック音楽がごく小さなボリュームで流れていた。テレビか何かで聞いたことのある曲だ。たしか、サッカーの中継で流れていた。
秋津さんがボリュームのつまみを捻った。音楽が会話より手前にくる。
「ヴェルディの『凱旋行進曲』」
秋津さんが言った。
「今日の日にぴったりの曲だろ?」
またバックミラー越しに笑みを向けられた。
僕は笑った。上手く笑えた自信はない。
十七年間過ごしてきたにも関わらず、久しぶりに足を踏み入れた我が家はどこか余所余所しかった。
まず、においが違った。壁や床の色も濃く見えた。家全体から「ここはお前の居場所じゃない」と言われている気がした。そんなものは被害妄想と病み上がり故の弱気から来るものだと頭ではわかっていたけど、心の折り合いはなかなかつかなかった。
リビングには見慣れない機械があった。黒く、冷蔵庫ほどの高さはあろうかという四角い物体。モノリス、という単語が頭の中で弾けた。そう呼びたくなる代物だった。
「これは?」
「ああ、それはね――」
「それは僕の仕事で使うんだよ」
秋津さんが母さんの声に被せるように言った。
「ごめんね、邪魔だろう。サーバーなんだが、どうしてもうちで作業をするのに必要でね。会社から手当も出るから、ここに置かせてもらってるんだ」
システムエンジニアをしている秋津さんがこの家に来てから、コンピュータが増えた。機械音痴の母さんはタブレットで映画を観るようになったし、かつて父さんの書斎だった部屋にはパソコンが三台もある。
「そろそろ返そうとも思うんだけど――」
言いながら、秋津さんは台所の母さんの方を窺っている。
「僕は別に気にしませんよ」
「そうかい? しかし、いつまでもこのままというわけにもいかないからね」
「ユキちゃん、着替えてきたら?」
母さんが手を拭きながら戻ってくる。
「部屋はそのままになってるから。あ、開けちゃいけないところは開けてないから安心してね」
「それはどうも」
僕は鞄を持って二階へ上がった。
自分の部屋は、氷で出来ているかのように寒かった。ずっと暖房を点けていなかったのだから当たり前なのだけれど、寒さの理由は気温だけではないような気がした。
鞄を置き、コートを脱ぐと、そこから先の着替えが面倒になった。僕は靴下も脱がずにベッドへ倒れ込んだ。枕も掛布団も冷たいままだったけど、そこは曲がりなりにも自分の寝床。効き始めた暖房のせいもあり、眠気がたちまち身体中に絡みついてきた。化け物みたいに大きなイカに海底へ引きずり込まれる海賊船のように、僕の意識は眠りの世界へ落ちていった。
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