1-2
ぼんやりしていた頭も、時間が経つにつれしっかりとしてきた。まだ痺れや怠さは残るけど、自分の身体が自分の物であると実感が持てるぐらいには感覚が戻った。
興奮冷めやらぬ母さんに代わって僕に何が起きたかを教えてくれたのは、担当の医師だった。きっと父さんが生きていればこれぐらいだろうという年頃の彼は、諸々の検査を終えた後で僕の病室へやって来た。そして肉付きの良い身体(この点が父さんとは大きく違う)をベッドの傍らに置いた椅子に乗せ、しっかりと踏みしめるような調子で、これまで僕の身に起きたことを語り始めた。
ここでわかったことは二つ。僕は学校からの帰り道に交通事故に遭ったこと、どうにか一命は取り留めたものの一年間に亘って昏睡状態にあったこと、だ。
一年。
僕は指折り数えてみる。いや、年だと指は一本しか折れないけれど、月にすると両手の指を全て折り込んでも更に二本が立つ。丸十二ヵ月とは、随分長い間寝ていたものだ。普段の休みの日だって、こんなには眠らない。道理で身体が思い通りに動かないわけだ。
「色々、辛いこともあるだろう」
僕が何も言わずにいるのを、ショックを受けたものと理解したらしい医師が言った。実際、大別するとそうなのだけれど、細かいことを言えばショックの質が違う。僕は、自分が失くした一年という時間を上手く想像出来ずにいる己にショックを覚えていた。
「だがね、今は後ろを振り返るのではなく、目の前に延びる道を歩くことが大切だよ」
僕は頷いた。先生も、深く頷いた。たぶん、また勘違いをさせてしまった。僕は彼の言葉に頷いたわけじゃない。後ろには何もないのだと自らに言い聞かせただけだ。振り向いても仕方がないんだ、と。
前を向いて進むしかなかった。
前へ。
前へ。
リハビリの間、頭の中から全ての考えを追い出して、ひたすらそう唱えていた。
始めは手摺りに凭れながら立つのがやっとだった。それが少しずつ歩けるようになり、手摺りを持たずに立てるようになった。ペンギンの赤ちゃんよりも覚束ない摺り足で三歩前へ進んだ時は、生まれてこの方味わったことのないような達成感を覚えた。
前へ。
もっと前へ。
ペンギンの赤ちゃんは成長した。それが割と速いペースだったらしく、リハビリを担当してくれた看護師の西野さんは「奇跡ね」と目を見開いていた。大体において合理主義の権化みたいにサバサバした人だけど、この時ばかりはロマンチックなことを口にした。
「想いの成せる業かしら」
たぶん、そうだと思う。
春一番が吹き荒れた日、退院の日取りが決まった。
退院当日は大雪が降った。交通網は大混乱を来していると、母さんが清算を済ますのを待つあいだ観ていたテレビが言っていた。
恰幅の良い担当医と西野さんがロビーまで見送りに来てくれた。他にも色々な人たちに世話になったのでお礼を言いたかったけど、みんな雪のせいで到着が遅れていた。
「元気でね」
先生が言った。
「少しずつでいいから、毎日ちゃんと歩くんだよ。今日は無理だけど」
西野さんが言った。
僕は二人に頭を下げた。
母さんと秋津さんも、僕の後ろで頭を下げた。
自動ドアを出た途端、冷たい空気に全身を包まれた。寒い、とは思わなかった。それよりも、吐く息が白いことに胸の隅が疼いた。生きているのだ、と今更ながら実感した。
「ユキちゃん?」
母さんが呼ぶ。僕は足を止めていたのだ。
「どうしたの、風邪ひくわよ?」
突然立ち止まった息子の様子によほど不安を覚えたのだろう、母さんが小走りでやって来た。僕が「今行くよ」と言おうとするのとほぼ同時に、母さんは足を滑らせた。
「ひゃっ」
甲高い声と共に胸に飛び込んできた重みに堪えきれず、僕は尻餅を突いた。幸い雪の積もった所に倒れたから、痛みはなかった。昔なら、転んだ僕が抱き起こされる方だった。転んだときの膝の痛みと、母さんに包み込まれる安心感がセットになっているのはそのためだと思う。
「ご、ごめんね!」
母さんは飛び退こうとして、自分も尻餅を突いた。
「大丈夫?」
僕は腰を上げ、手を差し伸べた。
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