雨の森-3 | 雨上がりの森
塗布薬を仕上げ、瓢箪へ雨水を注ぎ終え、雨水で綺麗に流し終えた箱を乾いた布で軽く拭う。
日持ちするといっていた食材も、ベラとヴィダルそれぞれの分に仕分け終えた。一通りのやるべき事を済ませていた頃、私達が厄介になっている大樹へ朝の陽光が差した。
暗がりの中で白む空には気付いていたが、途切れる様子を見せ無い雲が突如千切れ、私達へと陽の光を届けた。……そう、勘違いしてしまいかねる程、的確だった。
「うぅー……」
長く長く睡眠に耽っていたベラが、眩しい陽の光に喉を唸らせ、細目を開いて起床した。
いつの間にか眠っていたヴィダルもまた、上着の下より這い出て、短い手足を伸ばしている。
「おはようございます」
そう声を掛けると、寝惚けた顔のベラが必死に意識を明瞭にさせるべく頭を振っていた。
雨に濡れた犬猫が、自らの毛皮を震わす。そんな所作に似て見えた。
「お、は、ようございま、す……」
「ミ"ッ、ミミ、ミーー!!!」
尻すぼみに小さくなるベラの声と相対して、随分と派手に騒ぐヴィダルの鳴き声が森へ木霊する。
雨を滴らせる近場の花から、雫がぽたりと落ちていく。
如何せんまだきちんと覚醒しそうにないベラへ立ち上がるように促し、敷いた布を畳み、枕代わりとした布を軽く払って箱を包み直す。
ぼんやりとした侭であるベラは、立ちながら瞼を落として、今にも眠りに就こうと船を漕ぎださんとしていた。
「ミー!! ミ、ミィ、ミ」
「食事はもう少ししてからです」
「ミ"!?」
「ちゃんとありますから」
唯一騒ぎ立てるヴィダルは、お腹が空いたと訴えて続けていた。
等しく空腹であるだろうベラが何も言わない辺り、より食欲旺盛と言えるのはヴィダルなのだろう。
小さな身体は、案外消費が激しいのだろうか。
とやかく言われながらも、詰めるべき物は鞄に詰め、着るべき物は着用し、……此の雨宿りする前と同じ状態を取り戻した大樹を見渡し、ふむと頷く。
両手を首の前辺りで合わせ、顔諸共一礼をする。
「雨宿りさせていただき、ありがとうございました」
シャウリアの村で行われていた、感謝を示す儀式を真似たものだ。寝惚けるベラ、騒ぐヴィダルにもそうしろと言うべきであろうが、今はご容赦願おう。
そうして徐に手を解くと、代わりにベラの手を引いて、私は雨上がりの森を歩き始めた。
この大樹へ向かうまでに、小高い丘を遠目に発見していた。一日と半分程の時間を動かず過ごしたからか、足が重たく感じられる。なるべく急いて、向かわねば。
「ベラ」
「は…ぁ、い……?」
「昨晩した話を覚えていますか」
「あ……おはなし…、……あ! むらおさ、さんが、戸をあけるおはなし、ですか!」
「……あぁ、そうですね。そのお話です。戸を開けた先に何があるか、というお話です。いまから何があったか、見られますよ」
「! ほんとうですか!」
「ええ」
「はやく、いきましょう!」
漸くと意識を覚ましたらしい。
眼を輝かせるベラに逆に急かされる形で、私達は雨の森を踏み締める。
まだかまだかと執拗に訊ねる声に集中を削がれながら、なだらかな藪道を登り、所々で森の木々を反射する水溜まりを避けて歩き、蝶や小鳥が飛び交う花畑を抜け、視界を隠す木々を抜けると、開けた場所へと辿り着いた。
周囲の景色を見下ろせる、小高い丘へと無事に着けたのだ。
「わぁ!!」
ベラの第一声は、歓喜に満ちて短く響いた。
昨晩の続きで口にしようとした光景の通り、私達の眼前には、七つの色を持った橋が天高く遠隔の地をつなぎ合わせて空に掛かる。
虹だ。
柔らかな朝焼けに照らされ、澄み渡ったうす青の空に堂々と座るこの景色には、文字通りに圧巻された。
想像で語るよりも美しく発色させ、あの大樹を何本かき集めても届きそうにない程に大きく、朝靄で隠される虹の袂は、より神秘的に映った。
「せんせい、きれいです、すごく! びっくりしました!」
「ええ。ええ。そうですね」
「むらおささんも、びっくりして、きっと、お尻をついちゃいます!」
「ええ。そうでしょう」
「あれは、なんていうんですか!」
繋ぐ私の手をぐいぐいと引っ張り、もう片手で空に掛かる虹を必死に指差すベラに視線を落とす。
空腹を訴えていたヴィダルすら大人しくさせてしまう光景が待ち構えているとは、私もまた、思わなかったものだ。
この曖昧な気持ちを如何に形容すべきか迷う私であったが、静かに息を吐いて、答えを待つベラへ応えるべく口を開く。
「虹、というのですよ」
「にじ、虹ですか!」
「ええ。貴女はみるのが初めてでしたね。……世界は、美しいもので溢れているんですよ、ベラ」
「はい!」
笑顔を浮かべると、ベラは私から空へ視線を戻して、虹を食い入る様に眺めていた。
揃って、私も虹へと顔を向けよう。そう長くは掛からない虹の橋を、消え入るまで見詰めている事にしよう。
決してこの旅は楽とは言えない。それでも、時折、ベラをこうして笑顔にする物を見つけられる。
感慨深く耽る私の耳に、ヴィダルの訴える声が響き渡るのは、もう間もなくの話である。
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