或る修道士の受難-1

 何番目の街だったか。砂漠の村から頂戴した手記の白紙が、頁一枚の片面しか残っていなかったような、そんな頃だったか。つまるところ、二冊目の手記の初手に書き連ねるこれは、最近の話である。



 春先の季節だというに、山々はその膝元まで雪化粧を施されていた。澄み渡る空の青に浮かぶ雲のように、正しく真っ白い。豊穣豊かなこの地では、山の中腹まで田畑が幾つも点在し、また彼方此方で酪農も盛んに行われている。

 人の存在を感じさせながらも、私の目にはとても荘厳に見えた、そんな霊峰の麓には大きく栄えた城下街があった。いま私がベラとヴィダルと共にいる此の街だ。幾百人と行き交う往来の喧噪は賑やかで、時にけたたましい。

 私が人の住む街や村に着いた時、一番最初に見つけた人へ訊ねるのが、此処は良いところか、というものだ。余所者に自分達の村が悪い場所などと言う人間は滅多と居ない、だからこそ訊ね、悪いところだと言われた一握りの村は早々にベラを連れて立ち去る必要がある。

 さて。私が一番最初に見つけ訊ねた男は、私の質問に一瞬眼を忙しくしばたたかせたと思うと、途端に可笑しそうに笑った。笑い声を孕んで帰ってきた答えは、良い街だ、との一声だった。

 自然からの恩恵は無論、何よりこの街を収める領主がとても気の良い人物だそうで。召し上げる作物は極僅かで良い代わりに、街に活気を溢れさせてくれることを俺たちに強請って回るのだと。その為ならば、ワイン樽を豪快に開け、飲めや騒げやの祭りごとを自費でやってくれるのだとか。

 だが、大半の人間が豊かな生活を送れている此の街だ。わざわざ祭りなんぞやらなくとも、条件のひとつやふたつ喜んで飲み干してくれよう、と、曰く硝子工芸の職人だと告ぐ男は、酒瓶を傾け鷲鼻を真っ赤に染める。

 それに、街を活気づけてくれる旅行者など向こうからやってくるものさと、続けて男は言った。どういうことかと、私とベラが顔を見合わせると、アレだ、と、男は顎を向ける。その先に視線を向けて、私は直ぐ合点した。

 ベラは未だに不思議そうに私と男を交互に見上げている。男がベラに酒臭い顔を寄せて、ありゃあ蒸気機関車ってんだぜ、と呂律の狂いだした声で教えた。ベラはそれでも尚、不思議そうに私を見上げてから、教えられた蒸気機関車へと漸く視線を向ける。無理もない。これ程までに大きな街に辿り着いたのは初めてだ。ましてや、あの様な機械仕掛けの物をみたことすら今までに無かったのだ。

 かくいう私も実物を見たのは初めてだ。だが、今や遠い国では木や鉄の塊が空を飛んですらいるのだという。地上を鉄の塊が白煙をまき散らしながら走り回っていても不思議ではない。

 如何せん前時代的知識の中に生きる私でもある。蒸気機関の仕組みをベラにうろ覚えで教えるわけにもいかず、鉄の塊のように見えるあれは此の街の人達にとって大事な陸路のひとつなのですよ、としか、ベラに教えることは出来なかった。隣で男がげらげらと笑っていた。

 よっぽど不思議に映るようで、私の言葉にベラは何も応えないまま只管じっと蒸気機関車を見詰めていた。男に酒を押しつけられた私が、贅沢品は生憎口に運ばないのだと押し問答を暫く続けていても、ベラの視線は蒸気機関車へ釘付けだった。

 どうにか、断り切った辺りだったろうか。それとも、私の耳に入っていないだけで、男と私の会話の隙を見て何度か独り言をいっていたのだろうか。知れないが。切りの良い一寸の沈黙の間ベラがぽつりと呟いた。


 アレに乗ってみたい。


 と。

 私は眼を皿にした。いや、ベラの純粋な好奇心という芽を摘むつもりではないのだが。男の、旅行者っていう贅沢もんにしかつかえねえ陸路だ、の言葉の通り、あれは徒歩で街から街へ移っていく私の懐で賄える範疇の物では無いだろう。言葉を零したベラが、反応を返さない私に痺れを切らして、此方を見上げている。

 だが。今すぐにでも駄目だと告がんとしている私の思考を察してか、それとも知らずにか。一秒、また一秒と時を刻むにつれ、ベラの眼元にじわじわと水気が集ってきているように私には見えた。序でに、ぶらんと力なく垂らしていた両腕を何やら擡げて、私の片手指を握りしめにきている。握り込む力も緩慢に強くなっていっている。音で表現されるとするならば、ぎゅううう、とでもいいそうだ。

 変に期待をさせては酷な物だ。此処は直ぐ様、判然とした態度と口調で、あの蒸気機関車に乗ることはできないのだと言い聞かせなければなるまい。初手から残念がるのと、中途まで期待してから残念がらせるのと。どちらが良いかと聞けば誰が答えても前者というだろう、そう、所謂白黒つけるべき答えだ。

 私は深く息を吐き出すと、見上げるベラの頭を撫で、ベラに手を握られたまま膝を折って視線を合わせる。どんな言葉を投げたのか、いや、投げようとしたのかは詳細に覚えていないのだが、私は、行く末の長いであろう旅に贅沢は身を滅ぼす敵である、そんな事を教えようとしていた気がする。まあ、こんな事を今更思い出したとて意味は無いのだが。

 話を戻す。そんな、上記のような言葉を告げようとした私の言葉を、すっかり空にした酒瓶を転がして、真っ赤な鷲鼻を天に向けていた隣の男が、被せるように大きな声で遮った。


 あの蒸気機関車に乗りたいなら、働いてお金を貯めれば良いのさ。なぁに、働き先のクチなら俺が見つけてやるさ。


 太陽と水の恵みをたっぷりうけて咲き誇る花のような笑顔を浮かべたベラと、何処か得意気にふふんと鼻を鳴らす上機嫌に出来上がった男。男のもっともらしい言葉を、私は否定も肯定も出来なかった。だが、沈黙とは即ち肯定を示す暗黙の掟を、ベラは知っていた。


 おしごとしましょう、せんせい!


 しゃらんしゃらんと小気味よく鳴る鈴の音に似たベラの明るい声に、男は深く頷きながら私の肩の衣服を強く握った。私は、足を動かさないという選択肢を、ベラや男の申し出を断るという選択肢を、選ぶ事は、できなかった。

 修道士とは勤勉な物なのである。他者の善意だけで衣食住の恩恵をもらい受けるのも限度がある。子どものベラに空腹を強いる事象は万が一にでもこの先にあってはならない。それに。後々読み返すのであれば、質の良い手記の方がよい。……最後の一文は、私の私情ではあるが。


 ベラに片手を、男に肩を握られ続けている私が、首を縦に頷いたのは、直ぐの話だ。


 働き手を見つけたとでも思っている男がくつくつと喉を鳴らし、激励の意を込めて私の肩をバシバシと叩く。痛みすら覚える力の強さは、今暫く仕事を熟していなかった私の仮初めの器によく響いた。

 蒸気機関車に乗れるのだと確信したベラがきゃっきゃと声を弾ませ、出発の鐘を報せる蒸気機関車を輝く瞳で見詰める様子は、あるかないかも判らない私の心に圧力をぐんと掛けてくれた。そっと、ベラのポケットから様子を伺っていたらしいヴィダルが短い手を頭上に伸ばして、私にぱたぱたと力ない拍手を送る。私が目をそらしたのは言うまでもない。

 仕事をしたくないわけではない。だが、この世界と数百年の空白を未だ埋めきれていない私に、果たして何ができるというのか。いや。今のは言い訳である。高らかに言おう。私は仕事をしたくないと。あえて言おう、誰かと協調して仕事をするのは難しいのだと。出来うるならば、蝋燭をともした部屋で以て独りこのようにして文字をしたためていた方が楽しいはずである。と。

 私は、意気揚々と出発していく蒸気機関車に乗り込んで、誰ぞも知らぬ何処かの国へ行きたくなった衝動をじんわりと抑え、冷めた目で白煙の行く先を見詰めていた。



 悠然と漂っていた大きな雲が、突風によって突然散り散りにされてしまうように。一秒先を読む行為が、神でなければ難しいように。

 受難というものは唐突に降り注いでくるものだ。

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