曖昧模糊


私は雨の音が嫌いだった。重力に逆らうことも無く屋根に落ちては潰れる雨音が耳にこびりついては離れない。こういう日には決まって嫌なことが起きてしまう、私の人生において雨は災厄なのだ。十年前のあの日も大雨だった。雨音ぐらいではかき消すことの出来ない、響き渡る車の急ブレーキ音。私を押し倒した後ろ姿はとても大好きな背中だったのに。


トントントン


そう、こんな感じの雨音…トントントン?


「ふぁ…」


「あ、起こしてしまいましたか?すいません、朝ごはんでもどうかなと」


雨音ではなく包丁がまな板を叩く音だったみたいだ。昨日、地球が溺れるんじゃないかと思えるくらい降り注いでいた雨はとっくにやんでいて太陽の日差しがカーテン越しに照りつけている。眩しくて目が開けられない。


寝ぼけ眼を擦り目を開くと、ぼんやりとだが天使の後ろ姿、もといエプロン姿の嶋山さんが浮かび上がる。料理をするためだろう、髪を一本にまとめていた。こちらも眩しすぎて寝起きの私は気を緩めるときっと浄化してしまう。

自分が料理をしないのもそうだけど両親もそういったものは着ないので割とエプロン自体が物珍しい。


「おはようございます」


「おはようございます!よく眠れました?」


そう言われればあれから結構すんなりと寝られた気がする。頭に残る優しい温もりは一体なんだろう?誰かに撫でられていたような…


「もうすっかり元気ですよ!福路 湊、復活!みたいな」


「福路さんって面白い人ですね」


そう言って嶋山さんはまた口元に手を添えながら笑っていた。もしかしたら癖なのかもしれない。天使は笑い方まで徹底している。明るいクリーム色に染められた髪色は嶋山さんのオーラによってチャラいイメージは不思議と湧かない。むしろ聖母のような温厚な雰囲気が嶋山さんの周りには溢れている。


「あ、なにか手伝いましょうか?」


「それじゃあ食器類を並べて頂けますか?」


何もしないのも悪いのでこちらから手伝いの要求を申し出る。今日が仕事の休みで本当に良かった。さっきは全力復活!みたいなことを口走ったが実を言うとやはりメンタルはズタボロの雑巾みたいになっている。

雨に濡れて水分を多く含んだ薄汚れた雑巾からは、泥のように汚い水しか絞り取れない。


「いただきまーす!」


両手を合わせて拝む。ひたすら拝む。

目の前に並べられた食卓はザ・日本食という感じだった。炊きたての真っ白いご飯は米が立っているし、味噌汁は油揚げや豆腐、ワカメなど具沢山。そんな食事に彩りを付ける卵焼きは甘くはなく出汁が効いていて私好みだった。それに加えて嶋山さんは私の紅じゃけの骨抜きを…って、骨抜き!?


「ちょ、嶋山さん何してるんですか!?」


「えっ…?骨がない方が食べやすいかと思って…ご迷惑でした?」


「いえ迷惑という訳では無いんですが…お、大人なので自分でできますよ?」


「そ、そうですよね!つい弟たちにやってあげてたようにしちゃって…」


慌てて紅じゃけの皿を私の元へ返却している嶋山さんは少しばかり天然なのかもしれないなとその時思った。それにしても弟がいるんだ。出会ったばかりだが小さい子供の面倒を見る嶋山さんが想像の中で忙しなく動いていた。


「ほー、何人家族なんですか?」


「弟が3人と妹が2人、あとは両親ですね」


「大家族!?」


「ええ、よく言われます。二年前に家を飛び出してからはあまり顔を出せていないので寂しがってるかもしれません」


そんな風に家族のことを思う嶋山さんはもうそれはそれは母性の塊だった。家族のこと、大好きなんだろうなぁ。


「このままずっと面倒を見てもらう訳にはいかないんで食器を片付けたら私は帰りますね、本当に何から何までありがとうございました!」


一応明日は日曜日なので仕事も休みだがもう一泊するなんてそんなおこがましいこと出来なかった。ちゃんと整理するけど私達昨日出会ったばっかだからね?


「こちらこそ、いつも部屋に一人なので久しぶりに誰かと食べるご飯は美味しかったです」


最後まで優しい嶋山さんに涙が溢れだしそうだ。そろそろ私が枯れてしまう。


「あ、良ければなんですけど連絡先交換しません?お礼も兼ねて今度ご飯奢ります!」


運命の出会いなんて物を私は信じたりはしないが、少なくとも嶋山さんとの出会いは私にとって良いことである。出来ることなら仲のいい友達にでもなりたいと思った。素直に嶋山さんのことを人として、好きだなぁ。なんて思う。


「お礼なんてわざわざ大丈夫ですよ!でも連絡先は欲しいかもです」


スマホを顎に当てて少しだけ頬を赤らめた嶋山さんにドキッと胸が高まる。何よりも美人が引き立っていた。スマホからゆらゆらと垂れているそのおじさんキーホルダーは何なのだろう?


「恥ずかしいお話なんですが、仕事柄友達というものが少なくて…また連絡頂けると嬉しいです!」


「ありがとうございます!ではまたご飯誘いますね〜!」


しっかりと食器も片し、もう一度お礼を言って嶋山さんの家を後にした。少しだけ足取りが重いが。



「さぁー、もう一苦労してきますかぁ…」


楽しい時間は終わりだというように深い溜息をつく。あぁー私の少ない幸福が逃げていく。私は今からもう一度、自宅のポストに入っているあの紙切れと格闘を挑まなければならない。


「出席…するわけないよね」


結婚相手はどうやら男性のようだった。なんかそこにも腹が立つ。せめて私より何倍も美人が相手なら諦めもつくのに。写真に写った男性は随分と平凡な顔立ちだった。運命だとかそんなのあるわけないじゃん。

すぐにビリビリと破り捨てる。ゴミ箱に投げ捨てたが自分の欲望がチラついて鬱陶しい。燃やせばよかった。


御祝儀を出すのも億劫だ。なぜ私がお前らを応援せにゃならんのだ。なんなら出席してブーケで顔面を殴りに行っても良かった。実際そんな勇気があるかは置いといて。

招待状にはできる限り濃く破れそうなくらい力を入れて『ご欠席』の『ご』を消して丸をした。それぐらいの礼儀は弁えてやろう。


「はぁ…結婚資金どうしよっか」


実はこっそりと前々から私達二人のために貯めていた結婚資金が口座ですやすやと眠っている。別にあって困りはしないがなんだか虚しいような。

このお金で浴びるほどお酒でも買ってこようか?しかし今は何もする気になれない。そのままベッドに倒れ込んだ。

嶋山さんの手料理、また食べたいなぁ。


「湊ー!帰ったなら挨拶くらいしんしゃい!」


「ただいまぁ!!!」


一階から母親の耳をつんざくような声が響く。今は娘の状態を察してくれ母よ。


何をする気にもなれず項垂れたままの私はしばらく天井を見つめていた。何年も住んでいる私の部屋の天井にはいくつものシミが出来ている。なにか辛いことがあった時にはこのシミを数えるのだ。それで何かが変わる訳でもないが少しだけ落ち着く気がする。何度も数え終わったそれを意識なく眺めていると胸ポケットに入っているスマホの振動に心臓をやられた。


「そんな暴れなさんな…」


慌てて画面を開いたが内容は着信ではなく連絡アプリの通知。仕事関連か…?と意味無く目を細めながら恐る恐る画面を覗くと意外なことに相手は今朝、連絡先を交換した嶋山さんからだった。


(早速メッセージくれたんだ…!)


大好きなボールを追いかける犬みたいにスマホに食らいつく。素直に連絡をくれたのが嬉しかった。


『ちゃんと家に帰れましたか?』


「母だ…」


メッセージは私を心配した一文だけだったがその一言から優しさが伝わってくる。

返信のためにと文章を打ち込み、そして消す。そんな事を何度も続けているうちに結局は無難な答えにたどり着いた。


『大丈夫です!嶋山さんの家から結構近かったので助かりました。今度、遊びに行ってもいいですか?』


私は何駅分も走り続けていたと思っていたが、どうやら街周辺の同じところをグルグルしていただったらしい。そんなことさえも分からないほどあの時の私は混乱していたのだろう。今思い出すだけでも少し吐き気が込み上げてくる。


「あんた何ニヤニヤしてんの」


「うわぁ!?ちょ、お母さん勝手に入ってこないでよ!」


もう既に返信を終えた画面をじーっと見つめていた私はドアを開けて仁王立ちしている母の存在に気づかなかった。ここを通りたくば私を倒していけ!みたいなそんな感じ。ボス戦の開始である。


「どうせまた愛しの彼女からの連絡でも来たんでしょ?」


「違うし!ていうかもう別れたから、ほら出てった出てった」


母は基本放任主義で、あまり偏見を持たないタイプらしい。私が人生で一度あるかないかの勇気を、精一杯振り絞って彼女を紹介した時もあっさりしていた。なんなら『こんな娘を貰ってくれてありがとうね』と、泣きそうになっていたのは私のせいだろうか。


「別れた!?私の娘がこのまま一人で孤独死するのを天から見てなきゃいけないなんて…およよ」


「下手な泣き真似やめてよ!わ、私だっていい人くらい、いる…し?」


んなものはいない。


「そんな疑問形で答えられても信じられないわよ。まあ、あんたが幸せならあたしは別に結婚しようがどうでもいいけどね〜」


我が母ながら軽いぞ。まあそのおかげでこの年齢までずっと自由に生きてこれたのだが。ちゃんと母には感謝している。なんならちょっとだけマザコン気味と言ってもいい。


「ほらしっし」


手で虫を追い払うようにして母を部屋から押し出す。「無理して変な人との孫の顔とか見せなくても大丈夫だからね〜」余計なお世話じゃい。


なんの利益も生み出さなそうなそんなやり取りを終え、改めてベッドに座り直すとまたもやおしり辺りが振動した。危ない、私のキュートなおしりで踏みつけていた。


『基本家にいるのでいつでも来てください!待ってますね^._.^』


今の私の癒しは嶋山さん、貴方だけです。会ったばかりの人に癒しを求めるのもどうなのかと思ったが、今の私にそんなの気にする余裕もなかった。待ってますね、の文字を指でそっとなぞる。指先が暖かくなったような気がした。

そういえば最後にちょこんとつけられているこの顔文字はなんだろう。宇宙人…?いやいや普通に考えてネコだろうか。RPGに出てくる雑魚キャラみたいな顔だな。


そんな事考える前にまずは返信を打とう。えーと。


『明日とか…ダメですか?』


ええい、馬鹿者!そんな連日でお邪魔する奴がいるか!

すいません!すぐに消します!


頭の中で髭を生やした私とヘコヘコとお辞儀をしている私とで変な会話が生まれている。

ほんと仕方ないなぁ。ほい、Enterボタンっと。


ん?Enterボタン?


「ああああ!送っちゃった!?」


うわぁ、これだから平社員は…って違う違う。これどうしよう。絶対迷惑がられてるよ。

迷惑そうな嶋山さんの顔を思い浮かべる。ん?あれ、想像できないや。


しかし思った以上に嶋山さんからの返信は早かった。


『是非…!どうせなら夜はお外で食事でもいかがです?ฅ•ω•ฅ』


どこまでも優しい彼女と、最後にくっついている猫?に向かって自然と口から感嘆の声が漏れでる。


「明日も会えるんだ…」


しかしゴミ箱から送られてくる視線にハッとさせられた。『寂しさを埋められるなら誰でも良かったんでしょ?』違う。ただ私は…


私の本心がそう告げているのかは分からなかった。

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