捨て猫だった私を拾ってくれたのは天使でした。

第1話


その日は人生最悪の日だった。もうこれ以上ないくらい不幸で、希望なんて物もなくて、地獄に叩き落とされたとさえ考えてしまう。

遠距離恋愛中の付き合っていたと思っていた彼女から送られてきた一枚の呪いの葉書。


『私達、結婚します!ご出席 ご欠席』


…はぁ?結婚式招待状?


こんな紙切れ一枚で私の神経をぶっ壊すのは容易かった。いや、私の彼女のこういった精神こそ異常なのかもしれない。


なんだ?彼女は私の妄想の中の住人だったのか?いやキスもしたしデートもした。身体の関係だって私たちの間には結ばれていたのに。…なんなら結婚だって私と。

こんな窮地に立たされた人間が次に起こす行動ってなんだと思う?

いても立っても居られなかった私は彼女に電話をかけた。


「なんかね、この人に会った瞬間ビビっときたの!運命だって思った。私はこの人と結婚するしかないって」


とりあえず私と付き合っていた自覚はあったらしい。良かった私の妄想じゃなくて。

…いやそうじゃなくてね?

もうこの人としか考えられないんだってよ。

そのまま私は人生で初めて失恋という味を覚えた。苦すぎて私には耐えられなかったみたい。


そんな最悪の日に嫌なことは続いちゃうもんだね。私はこんな気持ち悪い感情を抱えきれなくなってつい、靴も履かず外に飛び出してしまった。そんな時、額にポツポツと冷たい液体が槍のように降り注いでくる。本当についてないったらありゃしないわ。

感情のままに飛び出してきたもんだから傘のひとつも持っていないし、はっきり言ってそんなこと気にする余裕も持ち合わせていなかった。


人目もはばからず全速力で大雨の中走り抜けた。こんなに走ったのはもう何年前の話になるだろう。大人はそうそう走らない。なんでも計画性を持って行動しちゃうから。それはいい事なのかよく分からないけど。

頬に流れるこの雫は雨なのか、涙なのか。メイクが崩れても、もうどうでもよかった。どうにでもなってしまえ。


今なら何万キロでさえも走れると思ったけれど人間には限界がある。ピーピーと普段なら鳴ってはいけないような音が口から漏れた。もう走れない。道路の端でへたり混んでひたすら息を整える。コンクリートに手を付いてついには膝から崩れ落ちた。このまま死んでしまえば楽になるなんて考えるのもバカバカしい。それじゃあどこまで行っても報われなさそうだし。

ぼやけていた視界が徐々に鮮明に変わる。気がつけば隣には雨風でボロボロになってしまったダンボールが置いてあった。ダンボールには『拾ってください』の文字。きっと猫でも捨てられていたのだろう。その猫は拾われたのか、それとも脱走したのか。


「私のことも誰か拾ってよ…」


別に誰かの返答を待っていたわけではない。なんなら今の私の姿を誰にも見せたくなかった。惨めで醜い私を。



「…大丈夫ですか?」



私を容赦なく襲っていた雨は一本の傘で簡単に封じられてしまう。その方向を見ると一人の女性が心配そうにこちらを見つめていた。


おっぱい…でかっ。


「良かったら私の家に…来ます?」



どうやら私を拾ったのは見知らぬ天使だったようだ。




「迷惑をおかけしましたぁ!」


今は営業で鍛え抜かれた輝かしいスライディング土下座を披露している真っ最中だ。本気で反省しながらの土下座をまさかするなんて思ってもいなかったな。営業中の謝罪なんて所詮形だけのものだし…


「いえいえ、顔をあげてください!大したことはしてないので…」


この人は私に舞い降りた天使だろうか。最近の天使はおっぱいが大き…

辛いことの連続で今にも天へと昇天しそうだった私を家に入れてくれたあげく、お風呂まで貸してくれたこの天使には感謝してもしきれないだろう。これを大したことないだなんて…

私の土下座でその感謝を返せるのなら何万回でもやってやる。別に天使の下乳を拝みたいとかそういう訳じゃない。うん。


「失礼しました。まず最初に名刺交換…じゃなかった、挨拶ですよね。私、福路 湊と言います。営業やってます」


「あ、どうもご丁寧に…嶋山 桜です。仕事は、在宅デザイナーです」


「嶋山さん、今回は本当にありがとうございます!」


「いや全然いいですよ、というかそろそろ…顔上げません?」


天使からお許しが出たのでガバッと起き上がる。挨拶しながらの土下座は流石に奇妙だったか。


「ところで、何があったか聞いても大丈夫ですか?」


そりゃ気になるか。あんな所で大の大人が傘もささずに泣きじゃくっていたのだ。普通の人なら気味悪がって声すらかけないだろう。それをこの人はきっと躊躇いもなく私を助けてくれた。ある意味命の恩人と言っても過言ではない。


「実は、恋人と付き合ってたつもりが…」


そのままあそこで絶望に打ちひしがれていた経緯を話す。話していて気づいたのだが今の私って相当可哀想な人なのでは?


「そうだったんですか…それは、悲しいですね」


あまりの出来事に嶋山さんも言葉が出ないみたいだ。そりゃそうだろう、いきなり付き合っていた相手から結婚のお知らせが届いたら私だったらそのまま首を吊るね。まあ私の話なんだけど。


「福路さんが良ければなんですけど今日はこのまま泊まっていってください。もう時間も遅いですし…なんだか一人にさせちゃダメな気がするし…」


最後の方は声が小さくてよく聞き取れなかった。でもその申し出ははっきり言ってありがたい。お風呂にまで入ったのにまたこの豪雨の中、外に出るのは厳しい。それに今この温もりから離れてしまったら何しでかすか分からない。警察のご厄介になることも考えられる。


「何から何まですいません…お言葉に甘えさせていただきます」


今日出会った見知らぬ人間にここまで出来るのだろうか?心の広い持ち主だな、なんて関心と共に感謝していたら自分のお腹からぐーっと低音のビートが鳴り響いた。そう言えば何も食べてなかったな、と思いつく。それに安堵も加えて胃袋も活性化しているのだろう。


「ふふっ、夜ご飯、余り物で良ければ召し上がりませんか?」


嫌な顔一つせずに、むしろ口元を手で押えながら笑っている天使から嬉しいお誘い。断る理由もなく私は食いついてしまった。


「是非っ!」



私は感動でまた涙を流していた。


「私…こんなに美味しい料理今までで一度も口にしたことないです」


「本当ですか?私も料理には結構自信があるんですよ。在宅なので暇な時はだいたい新しいレシピ考えたりしてます」


料理の腕など皆無な私からしたら本当に立派だし、尊敬の眼差しを向けるのも容易い。


「天使…じゃなくて、嶋山さんはここに一人暮らしなんですか?」


もし彼氏とかいるのなら本当に申し訳ないので尋ねてみる。帰ってきた彼氏とばったり遭遇したらお互い気分が悪いだろう。いや私たちは女同士だからセーフか…?


「はい、2年くらい前からもうずっと一人ですね」


「なら良かったです」


「あっ…」


私が目の前に並べられた余り物とは思えない料理をどんどん胃に詰め込んでいると嶋山さんは何かに気づいたように動きを止める。一人でいるのを良かったです、なんて言うのは少しばかり失礼だっただろうか?


「どうかしました…?」


「私の家、シングルベッドしか置いてなくて…ソファもお客様用の布団もなくて」


そんなことか。営業で鍛えられたこの体、地べたで寝たってウンともスンとも言わないから大丈夫だ。幸いフローリングの上には柔らかそうなカーペットが敷かれている。極上のベッドではないか。


「大丈夫ですよ!私床で寝れるタイプの人間なので!」


後からどんな人間だよと自分でツッコミを入れておいた。でもひとつしかないベッドまで借りるのは流石に気が引ける。


「そんなのダメです!身体痛めるし…」


しかし嶋山さんはそれを良しとはしないようだ。どこまで優しいのだこの天使。いや女神だなもう。


「いや本当にそこまで迷惑はかけられないですから、嶋山さんはぐっすりといつもと同じように寝てください!」


「あ、あの…福路さんが良ければなんですけど…」


「へ?」


時計の針が深夜の12時を指した頃。私はぬくぬくとベッドの上に寝転がっていた。寝転がっているとは言ってもぎゅうぎゅうで寝心地が良いとは言えない。しかし文句は言えまい。隣には安らかな寝息を立てている嶋山さんがいた。

どうしてこうなった?二時間前の雨に打たれなから心の死んでいた自分に見せてやりたい。お前、今日出会った女性と寝ているぞ。


シングルベッドで大人二人が窮屈になって横たわっていると言うのに嶋山さんはすぐに寝入ってしまった。私が言うのもなんだがこの人に危機管理というものはないのだろうか?私じゃなかったらその…唇くらい奪われてもおかしくないぞ?私だったから良かったものの。一応紳士だからな。


久しぶりに肩に触れる人の温もりに涙が出そうになった。今日泣きすぎだろう私。

本当に最悪だと思っていた今日は、数年後から思い返すと人生の転機と言ってもいいほどいい日だったのかもしれない。


この日、嶋山さんに拾われたことをきっと私は忘れないだろう。

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