第15話 橘麻衣 その七

 麻衣は境内の片隅に避難すると、常夜燈を地面に置き、風呂敷包みを解きはじめた。

 震える手では、かた結びした結び目が思うようにほどけない。背後の乱闘も気になって仕方がない。ときおり聞こえる斬撃音が、さらに焦燥を煽った。

 それにしても、と麻衣は結び目と格闘しながら思った。

 いったいなにがどうなってこんな事態になってしまったのか。いま自分に起こっている事態に現実感がまるでわかなかった。

 たしかに尚之介といっしょに未来に帰ることを夢見たこともあったが、それにしても、一本木忠太まで平成の世に連れて行くことになろうとは。

 いるはずのない人間が、ふたりもいっぺんに世界に増えたらどうなってしまうのだろう。隠せたとしても、せいぜい数日か数週間。江戸時代ならともかく、平成の世でそれ以上匿いつづけることはどう考えても不可能だ。

 当然ながら、尚之介はそのあたりの事情を全く理解していない。だからこそ、未来に行けばなんとかなると考えたのだろう。一本木忠太は、地獄よりはマシだろうというようなことを言ったが、果たしてそうだろうか。

 常夜燈を取り返さなければならないことはわかる。だが、ほんとうにふたりを未来に連れて行ってもいいのだろうか―――。

 いつの間にか、包みはほどかれていた。

 麻衣は、懐から取り出したスマホと、常夜燈とを交互に見くらべた。このスマホをこのカラクリに差し込めば、それで未来に帰れる。それですべてが終わるのだ。

 一本木忠太はもともと罪人だし、ここで捕まったとしても、もとの状況に戻るだけだ。

 尚之介とて、捕まったところで相手は犬養である。いちどは殺人の罪を見逃して逃亡させようとしたくらいだから、大ごとにはしないかもしれない。

 どんな理屈をならべてみても、それが言い訳でしかないことをわかっていた。これから自分が行おうとしていることを正当化しているだけなのだと。

 だが、どうしても考えてしまう。もしも未来で常夜燈が壊れてしまったら、と。平成の日本に常夜燈を修理できる人間がいるとは思えない。そうなったら、もうふたりをここへ送り返すことはできないのだ。

 子犬や子猫でさえ、気軽にうちに連れて帰ることができない性分の自分に、大の男ふたりの人生を抱え込むことができるとは思えなかった。

 麻衣は考えることをやめて、常夜燈に手をのばした。ふり返って、状況を確認する勇気はない。

 引き出しを引いてスマホを差しこむと、すぐにキーンという高い金属音が鳴りはじめた。

 これで終わりだ。いますぐすべてを終わらせよう―――。

 ほとんど現実逃避といっていい。かかるプレッシャーとこの現実離れした世界から逃避していたのだ。

 しかし、つぎの瞬間、意識的に追いだしていた背後の騒音が、突然、麻衣を現実に引き戻した。

 とっさに引き出しを引いてしまったのは、尚之介の悲痛な呻き声を聞いたからだった。

 ふり返ったとたん、目に入ったのは宙を舞う刀だった。そのあと、バランスを崩して地面に倒れ込む尚之介のすがたを両目がとらえた。

 尚之介はすぐに犬養を見上げたが、その手に刀は握られていなかった。腹を押さえているのは、傷を負っているせいだろう。

 無抵抗の尚之介に、犬養は刃先を突きつけた。

 まさか―――。

 心臓が跳ねあがり、気づいたときには、麻衣は境内の片隅から叫んでいた。

「未来に行きたくない人はいますぐここから出て行ってください!」

 思いがけないその行動に、なにごとだ、と言わんばかりの四人の男の視線が集まった。

 みるみる緊張が高まったが、言ってしまったものはもう取り消せない。麻衣は常夜燈を左腕に抱えて立ち上がった。

「すぐに常夜燈を起動させます。私は未来に帰りますが、いっしょに行きたくない人はいますぐこの境内から出て行ってください」

 男たちは呆然と立ち尽くしている。

 麻衣は繰り返した。

「ここから出ないなら、全員いっしょに未来に行くことになりますよ!」言いながら、尚之介のもとへ駆け寄った。そして、尚之介に刀を向ける犬養にことさらに言った。「犬養様、木島様から離れてください! ここで出会ったなかで、あなたが一番未来に向いていない人なんですからね!」

 しばらく無言で睨み合ってから、犬養はやっと動いた。チッと、舌打ちを残し、クマをうながして数歩さがった。

 麻衣はかたわらにしゃがみ込むと、尚之介の顏を覗きこんだ。目はもうろうとし、顔色は土気色に変色している。予想以上に傷は深いらしい。

「でも大丈夫です。すぐに未来に連れて行ってあげますから。二十一世紀の医療ならぜったいに助かります。だからしっかりしてください、尚之介様!」

 麻衣はそう言って引き出しを押した。すでに覚悟は決まっている。

 ふたたび常夜燈から例の音が鳴りはじめた。

「俺よりも一本木を……」

 尚之介に言われて、はっとした。すっかり存在を忘れていたのだ。

 一本木忠太はこちらへ向かおうとしていた。だが、クマに阻まれて動けないでいるようだった。

 常夜燈は、いつタイムスリップが起こってもおかしくないほどの輝きを放っている。

「一本木忠太! あなたも捕まりたくないならはやく―――」

 一本木のためにカラクリを止めるつもりはない。尚之介には時間がないのだ。

「あの馬鹿野郎……」

 声に目をやると、尚之介が脇差を杖にして起き上がろうとしていた。麻衣の制止も聞かずに歩きだす。

「尚之介様! 動かないでください!」

 悲痛な叫びをふり切って、尚之介はどんどん進んだ。怪我人だとは思えないほどの動きである。脇差を抜き、クマめがけて突進した。

 麻衣がそのあとを追う。

 犬養の声で尚之介の存在に気づいたクマが飛びずさると、一本木と尚之介のあいだの障害物がなくなった。

 常夜燈が目の眩むほどの光を放ったのはそのときである。

 限界だ。尚之介の腕を掴んで、麻衣は叫んだ。

「もう諦めてください!」

 尚之介は一本木の手を取ろうと、もう一方の手をのばした。

 ふたりの手が触れ合う寸前、目の前が真っ白に輝き、なにも見えなくなった。

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