第14話 木島尚之介 その八
二階に上がってくると、尚之介は表通り側の一室に入った。障子を開いて窓から通りを見下ろす。
黒山の人だかりが店先を埋め尽くしていた。
百軒の孤軍奮闘かと思いきや、状況は想像していたのとすこしちがった。窮地に陥っているのは百軒ではなく、役人たちのほうだ。
怒れる町人たちが百軒とともに猫屋の前に立ちはだかり、役人の侵入を妨げている。
大声で繰り広げられる舌戦からも、猫屋に一本木忠太が逃げ込んだということをわかっているのはまちがいない。つまりここでも、一本木の人気ぶりと、役人の嫌われぶりが露呈されたわけだ。
このようすでは、もう少し時間を稼いでくれそうだ。
階下へ戻ると、麻衣は廊下でつっ立っていた。不安げな顔もそのままだ。
尚之介は、簡潔にこれまでの経緯と未来に行く理由を説明した。
むろん、未来で一生を終えるつもりはないし、ほとぼりが冷めたら、またここに戻って一本木に常夜燈を盗み出してもらうことになる。そうでなければ、わざわざ危険をおかして一本木忠太を連れ出した意味がない。そのうえで、常夜燈を取り返すにはもうこの方法しかないのだ、と念を押した。
話が進むにつれ、麻衣の顔はあからさまに青ざめていった。衝撃的な情報をいっきに詰め込まれたのだから、混乱するのも無理はない。だが、いまはそんなことを言っていられる状況ではない。
尚之介は茫然自失の麻衣の両手首を掴んで、その顔を覗きこんだ。
「気持ちはわかるが、しっかりしてくれ。お前だけが頼りなんだ」
「そんなこと言われても……」
励ますつもりで言ったが、あまり効果はなかったらしい。尚之介は攻め方を変えることにした。
考えながら、ゆっくりと切り出した。
「このあいだ、いっしょに行こうと言ってくれたな。俺にはもっとあった仕事があるとも」
「はい……」
「本心を言えば、こころが動いた」
「でもあのときは……」
「ああ、本心を言わないのが侍だからな」自嘲気味に、こうつけ加えた。「結局言ってしまったが……」
「やっぱり侍に向いてないんですよ」
麻衣の顔に、わずかに笑みが浮かんだ。
「おふたりさんよ、いい雰囲気のところ申し訳ないが、そろそろ外がやばいかんじだぜ」
一本木が口をはさんだが、無視してつづけた。
「麻衣」と、尚之介は仕切り直すつもりでその名前を呼んだ。「都合のいいことを言っているのはわかっている。だが、ほかに方法がなのもたしかだ。もうひとつの常夜燈を水野から奪い返すためにもな」
麻衣はしばし瞑目したが、顔を上げると、こう答えた。
「……わかりました。いっしょに行きましょう。こんどは私があなたを守ります」
「ああ、頼む」
うなずき返してから、ようやく一本木に目をやった。
「お前は、未来へ行く覚悟くらいあるな」
へっ、と一本木は、なにごとでもないという風に鼻で笑った。
「そのミライってやつがどんなとこだかは知らねえが、地獄よりましならどこへだって行くさ」
「そうか」鷹揚にうなずき返すと、尚之介は表情を変えて厳しい口調で言った。「だがその前に場所を変えよう。ここはもう限界だ」
同心たちが踏み込んでこないのは、町人相手に手荒なことをできないということもあるだろうが、それ以上に、応援を待っているからにちがいなかった。奉行所までの距離を考えれば、役人たちが踏み込んでくるのは時間の問題である。
見つからずにここから抜け出すことができたら、もうすこしだけ時間稼ぎができるだろう。
確認すると、裏にはまだ人がまわっていなかった。抵抗してくれている百軒たちに感謝である。
麻衣が常夜燈とスマホを持ってくるのを待って、三人は猫屋を出た。
裏庭から裏店界隈へと入り込み、細かい路地をぬうようにしてひたすら進んだ。先導するのは一本木である。
ほどなくして、三人は神田川ちかくのいかにも寂びれた稲荷社にたどり着いた。境内は草が生い茂り、人目はない。尚之介すら存在を知らない稲荷だった。
さすがに泥棒だけあって裏路地にも、人目につかない場所にも詳しい。
促すと、麻衣は無言でうなずいた。尚之介と一本木が見守るなか、一歩進み出て包みを解こうとした。と、ちょうどそのとき、鳥居のほうを気にしていた一本木がぽつりとつぶやいた。
「さっそくお出ましか……」
尚之介と麻衣が同時にふり返った。ふたりの目に映ったのはクマを従えた犬養である。
「なるほどな。それがお前らの逃亡計画か……」犬養は言いながら、ゆっくりと境内に踏み込んだ。めずらしく、その手にキセルはない。「だが、そんなことで、この俺を出し抜けるとでも思ったか、木島」
「どうやら、お前とはどうしてもやり合う運命らしいな」尚之介も刀の柄に手をのばした。ここまできて引くつもりは寸分もない。「仕方ない。さっきのつづきといくか……」
「おもしろい、お前らまとめてしょっぴいてやる」
尚之介が刀を抜き放った。犬養がそれに倣って刀の柄に手をのばす。一本木とクマも対峙したようだ。麻衣はというと、口を開けたまま呆然と成り行きを見守っていた。
「ぼうっとするな! 安全なところで準備しておけ!」
その一喝に、麻衣は我に返ったようだった。境内の片隅に移動して常夜燈を地面に置くと、あたふたと包みを解きはじめた。
犬養の意識がほんのわずかに常夜燈に向いた。
その隙を見極め、尚之介は踏み込んだ。
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