第32話 神話(和歌)

 風に揺られた枝の下、木陰の上で目覚める。


 反射的に腹部に手を当てるが、さっきまで感じていた痛みがない。


 動くことに臆病になっている……痛みがないのに体が立ち上がる動作を拒否した。


 それでも意を決して立ち上がる。

 当然、痛みがなければ傷もないので、二本足でしっかりと大地を踏みしめ、立ち上がれた。


 すると、まるでこの大木を待ち合わせ場所にしたかのように、人影が現れた。


「思ったよりも早いな。そもそもこうして現れる可能性も低いと思っていたよ」


「……タイミング良く、こっちも意識を落とせたから。落とされたんだけど……、だからしばらくはこっちにいられると思うよ。それで、わたしに耳打ちした通りにきてあげたんだけどさ……本当にやるの?」


 現実世界で、腹部にナイフを刺された時に、こう伝えた。


『決着は向こうで』


 さすがにこうもすんなりとは言えなかったが。

 激しい痛みで意識が朦朧とする中、なんとか絞り出した言葉だ。


「正直、先輩の相手をしている暇もないんだけどねえ」


「どうせ、逃げたはいいが隠れる場所もなくて警察に捕まったんだろ? だったら長い間拘束されるはずだ。暇潰しに付き合うくらいの気軽さでいいじゃないか」


「その拘束を振りほどいて、魔王の元にいくんだけど……」

「無理だよ、向こうの世界で、多少運動神経が良くて武器の扱いに手馴れてるユカでない勇者のお前だとしても、日本の武力と組織力には敵わないさ」


 ユカも自覚しているから、言い返さなかった。


「はぁ。捕まっても尚、まだ懲りずにアヤノを狙うと言うなら、止めるさ」


 真下の地面から、杖が飛び出し、和歌の手が強く握り締めた。


「アヤノを贔屓しているわけじゃない。刃傷沙汰で人の道を踏み外そうとするお前を、止めるためだぞ、ユカ」


「……変わらないね、そういうお節介。腹を刺されてどうしてそう気にかけられるのか、分からない……。普通は恨むんじゃないの? 今だって、復讐を唱えるのが一番、場に合った文句なんじゃない?」


「バカ言うな」


 和歌にとっては、一歳下だろうと、解釈は同じらしい。


「子供のすることだ、いちいち根に持ったりしないさ」



 理想のお姉ちゃんだね、とよく言われる。

 その世話好きな一面が強く印象に残るのだろう。


 誰かが辛い思いをしている時は、できるだけ傍に寄り添うようにしている。

 感情だけを出したちぐはぐな言葉の羅列でも最後まで聞き、頷く。

 重要なのは、見捨てないことだと知った。


 全てを完璧にこなせる才色兼備で面倒見の良いお姉さんと評価される和歌も、最初はなにもできずに癇癪を起こす、我儘な妹だった。


 ……年の離れた兄がいた。


 彼は今の和歌に似ているとは言い難く、不器用で、大切な人を泣かせてしまうことが多く、嫌われてしまうことも何度もあった。

 和歌も、しつこい兄に嫌気が差した時期があった。


 だけど、兄は決して見捨てなかった。

 言葉をかければかけるだけ傷つけてしまうだろうと察していれば、ただ傍にいてくれた――話しかければ短い言葉で相槌を打ってくれた。


 それが心地良く、だから救われたのだと思っている。

 まったく、シスコンなんだから……と幼少の和歌は呆れと同時に嬉しさを持っていた。


 しかし、兄は妹を特別視していたわけではない。

 小さい子なら、誰にでも手を差し伸べていた。

 だから、シスコンではなく、ロリコンだったんだ――としばらく嫌いになった。


 正確に言えば、小さい子というより、自分よりも年下の子を気にかける性格だった。

 ロリコンとは思えない、和歌からしたら年上の女性も助けていたのだから。


 一回だけ、聞いたことがある。

 兄さんの特別は、恋人じゃないの? と。


 一つ下の女の子と良い雰囲気になっていても、それは年下で困っているから助けたのであって、そういう下心は一切ないのだと言った。


 どうして、年下の子を助けるのか、とも聞いた。


 兄は「弱いから」と言った。

 少し攻撃的に聞こえたが、それは彼の不器用で口下手な言い方の問題だった。

 戸惑う和歌の表情を見て、兄はすぐに訂正をした。


「人は、弱ってしまう時が必ずあるんだよ。ずっと強くなんていられない。我慢だって一生は続かない。どれだけ我慢強い人でも、切れてしまう時があるんだ――」


 珍しく、普段へらへらとしている兄の、真面目な顔を見た。


「弱っている時は、傍に寄り添って、支えてあげるんだ。特別なことはなにもしなくていい。……ただそれだけで、救える人がいる。だったら、手を伸ばす価値はある」


 それでも、兄がする必要はないはずだと、和歌は思った。


「認められたかったんだ」


 兄は、なにをしても失敗ばかりで自信が持てない自分にコンプレックスを抱いていた。

 思えば、これから先、優秀な道程を辿る和歌と比較されて、辛かったのかもしれない。


「こんな俺でも役に立つんだっていう、証明が欲しかったんだよなあ」


 ……でも、年上を助けないのはなんで?


「え? だってあいつら、俺が助けなくても充分強いだろ?」




 兄の死因は交通事故だった。


 不注意が招いた事故ではないとは言え、それでも人を殺したのだ、可哀想だが、運転手は加害者として人生を狂わされた。

 兄からすれば、「あいつらは強いから大丈夫」なのだろう。


 しかし、和歌は兄の葬式で、彼の遺影の前で呟いた。


「強く、ないだろ……」


 だって、兄は、死んだ。


 子供を助けようとして――しかし、丁度その場面を見ていた和歌の後輩が、詳しい詳細を教えてくれた。

 確かに子供を助けようとして飛び出してはいたが、子供が轢かれる可能性は万に一つもなく、充分な距離が取られていた、と。


 前から見ないと分からない距離感だったため、兄は遠近法による錯覚で思わず飛び出したのかもしれない。

 真実は分からないが、和歌には言い訳のようにも思えた。


 子供を助けるために飛び出して、死んだ。

 そうすれば、自殺をした弱い人間だとは思われないだろ? と。


「……ふざけないでよ……っ!」


 葬式の真っ只中、遺影を殴りつけそうになって、ぐっと堪える。


 年上は強い人間? 

 和歌からすれば、兄も年上だ。


 自殺を選ぶほど追い詰められた、弱い人間じゃないか……ッ。


 人のことを気にかけている場合ではない。


「どうして、言ってくれなかったんだ……!」


 同時に、どうして気づけなかったんだ、と自らを責める。

 隣に寄り添うだけで良かった、少し会話をするだけで良かった。


 少し早めの思春期による、冷え切った関係で会話をしなかった毎日を後悔した。


「和歌、最後のお別れよ」

「……うん」




 火葬前、最後に兄の顔を見る。


 兄の意思を継いだわけではない。

 兄は、無力な自分は実は役に立つんだぞという認められたい気持ちで世話を焼いていただけで、他人のためではなかった。


 だから和歌だって、兄のためではないし、手を差し伸べた誰かのためには動かない。

 こうして突然いなくなってほしくないから、頻繁に気にかけて様子を見るだけだ。


 始まりは、そうだった。

 結局、自分ではなく誰かのために世話を焼いてしまうのは、彼女の人間性だろう。


 兄とは違う、才色兼備な彼女が多くの人に慕われる心の余裕からくる、慈愛だ。


『あいつらは強いんだよ』


 子供たちを助け続けて、頼られて、和歌にも分かったことがある。


 ……兄は、弱さを見せたくなかったのだ。


 それは、年上としてのプライドだ。


 助けてほしくても、助けてほしいなんて言えなかった。

 巻き込みたくなかった――だから兄は、妹に打ち明けられなかった。


 年上は強い、実際はそうでなくとも、そう結論づけて助けない理由を作った。


 大人のために。

 子供ながら、気を遣った。


 和歌はやっと、兄に追いつき、初めて、理解できたのだった――。




 神同士の戦いが、大陸全土を震わせていた。


 動物たちが暴れ出す。


 普段は決して越えられない柵を飛び越えて、馬たちが逃げてしまった。


 あちこちから聞こえる鳴き声が、まるで悲鳴のようだ。


 モーラが相棒である白毛の馬に乗り、大陸を駆ける。



 遠くに見える和歌とユカの戦いへ近づいていく。

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