第31話 見えていなかったもの

 きゃ、おわっ、と周囲の人にぶつかりながら、真っ直ぐにこっちへ向かってくる。

 苛立ちを含んだ視線を向けながらも、彼女を止めようとする者はいなかった。


 近づくにつれて荒々しさがなりを潜め、するりと流れるような軌道で。

 人々の注意はあっという間に彼女から逸れ、喧噪が足音を消した。


 オットイも、今の光景がまるで休日の一風景のように溶け込んでいると錯覚した。


 危機感を抱くのが遅かった。


 ユカが持つナイフは、既にアヤノの背に向けられている。

 あと数歩踏み込めば、ナイフは肉体を突き破り、ずずず、と中へ食い込んでいく。


 ――間に合わないっ。


 だから、無傷で止めることは諦めた。


 どんっ、とアヤノの背を自らの背で押し、両手を広げて刃を受け止めようとする。


 ナイフは剣ほどのリーチがない。

 つまり、オットイもろとも、アヤノが串刺しになる結末は訪れない。


 なにも知らない後ろの二人には気付かれないように。

 彼女から武器を奪う――そう、自らの体を鞘に見立てることで、だ。


 助けたい、と、怖い、逃げたいがせめぎ合った結果、助けたいが勝り、こうして、まるで自分の体ではないかのように体が勝手に動いていた。


 改めて、オットイはその変化にゾッとする。


 迫るナイフよりも、オットイ自身の人格でありながら勇者ニオの意志が絡んで行動に出てしまうことに、恐怖を感じた。


 これではまるで。

 苦しい部分だけを肩代わりしているようではないか――。



 ずずず、とナイフが肉を突き破り、食い込んでいく。

 ただ、その感触は、オットイは感じられなかった。


 悲鳴が上がる。

 喧噪が別種類に変わり、視線が一か所に集まっていた。


 野次馬の声、着信音、シャッター音が彼女たちを中心に広がっていく。

 警備員が駆けつけ、周囲の人々をどけた。


 中にはオットイたちの姿もある。

 からん、とナイフがこぼれ落ち、赤い水溜まりが広がっていった。


「……やだ、やだよ……っ!」


 流れに逆らって、騒ぎの中心へ向かおうとするアヤノだったが、押し寄せてくる人の波にこれ以上は逆らえず、戻されてしまう。

 途中で転び、たくさんの人に仕方なく踏みつけられて、声も上げられない彼女の手を掴んだのは、オットイとニオである。


「こっちに!」


 人の流れから脇に逸れ、柱の後ろで一休みを入れる。

 あの場所には、しばらく戻れそうになかった。


 倒れた人影が救急隊員によって運ばれていく。


 担架から垂れ下がった彼女の腕に付着した血が、これは現実だと突きつけてきた。


 どうして……、なんて、聞くまでもなかった。


 彼女ならこうする。

 ユカならこうするだろうと同じくらいに、彼女の行動だってとても分かりやすかったのだから。


 たとえ別世界で、神だとしても、この世界では武器に対して無力に等しい。

 そして、刃をその身に受ければ、簡単に死んでしまうくらいには弱い存在だ。


 座り込んだアヤノが、体を丸めて、嗚咽を漏らしながら。


「和歌、先輩……っ」


 涙を隠し、塞ぎ込んだアヤノに寄り添うニオが、未だ立ち尽くすオットイを見上げる。


 どうして支えてくれないの? 

 そう言いたげな視線も、彼の表情を見て伏せられた。


 助けなくちゃいけないわけじゃない。

 助けたいと思ったこの気持ちは、勇者ニオのものであり、オットイではない。


 彼女の気持ちが流れ込んで、そう思わされているだけだ。


 自分の内から沸き上がった感情だと、錯覚している。


 これが、いつか、なんの疑問も持たなくなった時、オットイという人間は勇者ニオに乗っ取られたことを意味する。


 それが正しいのだと、思った時が確かにあったし、それを望んでいた。

 じゃあ……それさえも彼女の思う壺だったら?


 本音では自我を保ちたいのに、彼女の意見に押し潰されて、強制的に意見を変えられていたとしたら? 

 どこまでが自分の本音で、どこからが彼女の気持ちなのだ?


 アヤノを救いたい、それは彼女の望みだとして。

 では、ニオを守りたいと思ったこの気持ちは、果たして自身から沸き上がった感情なのだろうか。


 以前のニオに守られることを選択したのだって、もしかしたら彼女の長い長い思惑の、一つのステップだったのかもしれない。

 ずっと前から、生まれた時から、操り人形だったのかもしれない……。


 今の自分は、オットイなのか?

 こうして自分と彼女の在り方を問うのも、彼女の思惑なのではないか?


 両手が震え出した。

 分かりやすく、殺して、乗っ取ってくれれば話は簡単だったのに――。


 自身の内にいた次世代の勇者と、ユカはどうやって付き合ってきたのだろう……姿を消した彼女に問いかけるには、もう難しくなってしまった。



 日本家屋であるアヤノの家に戻り、憔悴したアヤノを寝かせる。

 眠る彼女を、老夫婦が看病してくれていた。


 日が落ち、夕日が縁側を照らす。

 畳の上に正座する、オットイの姿があった。


 意識を沈めて彼女と対話をしても意味がないだろう、あれこそ、思考を誘導されている原因であると言えた。

 それに、面と向かって指摘したとしても、彼女がそれを認めるわけがない。

 悪意があればあるほど、耳障りの良い答えが返ってくるのだから。


 ふと目を開けると、頬に手を添えようとしていた、ニオがいた。


「っ、ニオ、ちゃん……?」

「むぅ、わたしは今の、ニ、オ!」


 頬を膨らませて、昔の妹と間違えられたことに拗ねてしまう。

 見た目が同じなのだから、反射的に名を呼んでしまうのは仕方ないだろう。


 名前を呼んでいる内は、オットイが引きずり続けている証拠にもなってしまうが。


 ニオが姿勢を正し、オットイに倣って、向かい合って正座をする。

 なにか話でもあるのかと思えば、じっとこっちを見つめているだけだった。


「話がしたいのは、お兄ちゃんの方じゃないの?」


「……話って、これからのこと? とりあえず、アヤノ様の回復を待たないとね……和歌様は病院ってところで治療を受けてるみたいだし、ユカ様は……さっきテレビ? のニュース? で、行方不明だって、言ってたから……。多くの人が探してるみたい。たとえこの場所がばれていても、簡単には辿り着けないよ」


「うん、それはお兄ちゃんと一緒に全部聞いてたし、見てたから、知ってる」


 オットイもだろうと思って、だけど一応整理して、説明していた。

 オットイからニオに話すことなど、浮かばなかったためだ。


「お兄ちゃん」


 責めるような口調だった。


 かつてのオットイなら全て、口を割って話していたかもしれないが、余計な心配をかけたくないがために、口を閉ざした。

 ……これもまた、思わされているだけなのだろうか。


「……もう、いい」


 ニオが立ち上がり、オットイの視界から去っていく。

 手を伸ばそうと上げかけた腕を、拳を握って膝に叩きつける。


 ニオは関係ない、巻き込んではならない。

 ユカからニオを守るため、アヤノに縋り付いた結果、こうして異世界へ移動した。


 しかし、ユカの狙いは既にアヤノへ移っている。

 ニオを狙う者はもういないのだ。


 彼女がわざわざ首を突っ込んで危険な目に遭う必要はない。


 弱音を吐くな、助けを求めるな、勇者ニオの手中に収まっている以上、オットイは仕方なくもアヤノを救うために動く羽目になる。


 危険が付きまとう、犠牲と被害が出る。

 既に一人、怪我を負ってしまっているのだ。

 ニオに背負わせるわけにはいかない。


「こう言うべきだった?」


 背中に体重が乗り、後ろから二本の腕が垂れて、上半身が抱きしめられた。

 耳元に、息が吹きかけられ、気を抜いていたら声が出ていただろう。


 ニオの匂いが、オットイの緊張を一つ一つ、解いていく。

 そして、とどめはやはり、彼女だった。



「オットイくんの抱える悩みを、聞かせて」



 その声に、言葉に、いとも容易く覚悟が決壊した。


 オットイは内に抱えた勇者ニオの思考に、徐々に侵食されていく恐怖を打ち明けた。


 自身の感情は勇者ニオによって操作されたものなのではないか、と。


 勇者ニオに乗っ取られたわけではないが、今だって、既にオットイではなくなっているのではないか、と。


「気付かない内に、ニオちゃんを忘れてしまっていたらと思うと、恐いよ……っ!」

「……やっぱり、前の妹さんの方がいいんだ……」


 過ごした年月が違うのだから、当たり前だが――現妹としては嫉妬してしまう。

 ともあれ、ひとまずニオは単純な質問をした。


 オットイは勇者ニオの思考が流れ込み、オットイの人格を侵食している、とばかり思い込んで、自分自身が徐々に失われていくことに恐怖を覚えている。


 しかし、その逆については、言及しなかった。


「逆……?」

「うん。お兄ちゃんの話を聞いてね、気になっていたんだよ」


 ニオはさっきのように、正面で正座をしていた。

 向かい合う彼女が本当に疑問だと言うように首を傾げて、




「アヤノ様を助けたいって気持ちが勇者様の意志なんだって言うけど、どうしてそれをお兄ちゃん自身のやりたいことだとは思わないの?」






「………………………………………………………………」




 オットイの頭の中が、真っ白になった。


 は?


「可愛い女の子が危ない目に遭ってる、その子を助けたいって思うのは、選ばれた人にしかできないの? 具体的に、助ける方法を思いついて、実際に実行しようと思えば、できる人は限定されちゃうとは思うけど……思うだけなら、きっと資格なんていらないよ」


 無関係を貫く方が、実は難しい。


 もしも手を差し伸べれば――たとえば後になって、ああしていれば、こうしていれば、結果は変わったかもしれない。

 違う未来があったかもしれない。


 そう思うことは、勇者でなくとも誰だって思うことだ。

 妄想する。

 頭の中では、スマートに解決している。


 できるできない関係なく、勇気があるなら救ってあげたいと思うのは、誰にだってある欲求ではないのか?


 もちろん、オットイだって例外ではない。


 勇者ニオの意志が侵食したのではなく、オットイ自身が、泣いて海に沈みゆくアヤノを救いたいと思ったから、行動に起こしたのではないのか――?


 ニオを守りたいオットイと――アヤノを救いたい勇者。


 だけど実際は、ニオを守り、アヤノを救いたいオットイと勇者だったら。


 オットイの自我が失われていくのとは逆で、オットイの人格が、勇者ニオに侵食されまいと感情の規模を増やしていると言える。


 彼自身の成長が、侵食に対抗していたのだ。


「お兄ちゃんは昔から変わってないよ。ニオちゃんに守られていた時だって、あの子の隣にいた時なら、お兄ちゃんは強く、誰かを救おうとしていたよ」


 日向にいる妹が目立っていただけで、日陰と揶揄されるオットイだって、脚光を浴びるべき行動を起こしていた。

 注目されないだけで、彼女は認めていた。

 彼女自身が、自分のせいで枷をつけてしまったと後悔しているくらいなのだから。


「お兄ちゃんが迷う必要なんてない」

「ニオ……」

「それともこう言った方が、お兄ちゃんは燃えてくれる?」


 膝立ちのニオが、額を合わせてきた。




「――アヤノ様を、助けてあげて、お兄ちゃん」

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