後編
第25話 お兄ちゃん
――しかし。
やっと見つけた勇者ニオの肉体は、神であるユカに、目の前で消滅させられた。
時間は膨大にある……また探せばいい……、そう思えばいいのだが、やはりショックが大きかった。
このまま海の底まで沈んでしまおうかと本気で考えた時、拙い力でアヤノの体を引き上げようともがく少年の姿が見えた。
両手ごと体がロープでぐるぐる巻きにされた状態から、ドレスに噛みついて、必死に足を動かし浮上を目指している。
のだが、努力は報われず、沈んでいくばかり。
挙げ句、彼の呼吸が持たず、動かしていた足が次第に弱くなっていく。
なのに、彼はドレスに噛みついたまま、離さなかった。
……なんで、よ。
と、口の中で呟くアヤノが見た。
彼は必死さとは裏腹に、自分の行動に疑問を抱いている様子だった。
遂には意識が朦朧とし始めた彼の体を支えて、アヤノが浮上する。
水面に顔を出すと、彼が盛大に水を吐き出し、何度もむせていた。
彼は整わない呼吸のまま、呟いた。
どうしてか分からない、だけど助けなくちゃいけないと、体が勝手に動いた。
――と。
大した根っからのヒーロー精神だ、と思うだろう。
アヤノもそう思った。
だが、おかしいのだ。
彼は――オットイは、そんな行動に出るような人格は持っていない。
ニオが失われたことによる大きな変化だとしても、前触れがなさ過ぎる。
そう、それは、まるで。
――オットイではないかのような、違和感を孕んでいた。
侵食されている、とオットイは危機感を抱いた。
大切な人との記憶が、遠い過去から順に塗り替えられていく――。
共に生まれ、だけど彼女は少しだけ先行し、手を引いてくれていた。
その背中を見続けてきた。
振り返って、笑ってくれる表情に安心した。
……今では、口元だけしか思い出せない。
彼女とだけは合わせられる瞳の色も、慕う神と会うと紅潮する頬も、共通する青みがかった黒髪も、どれくらいの長さだったのか……霞がかってしまっている。
ふわりと浮き上がり、遠くへ離れていってしまう彼女の手を必死に掴むも、彼女の髪の色が鮮やかな金色へ変色していく。
あれ? ぼくは……。
――記憶は、完全に塗り替えられていた。
……この人を、守らなければならない……って。
不慣れな行動への不安と拒否感が体を震わせる。
なのに、気持ちは急いている。
矛盾を抱えているちぐはぐな魂と肉体が、オットイに多大なストレスをかけていた。
結果、彼は高熱にうなされることになる。
額に乗った冷たい感覚に目を覚ました。
探るように手を伸ばすと、指先がつん、と当たり、自然とつまんでいた。
オットイの熱を持つ手が、冷たい誰かの手に包まれた。
ゆっくりと目を開けるが、まるで水中にいるように、景色が歪んでいた。
よく分からなかった……でも、目ではなく、心が、魂が覚えていると訴える。
もはや顔も思い出せない今のオットイにはたとえ見えていても分からなかったはずだ。
彼の口癖が、彼女の名を自然と呼んでいた。
「……ニ、オ、ちゃん…………」
呼びかけに応える声があった。
「はい、わたしはここにいますよ、お兄ちゃん」
アヤノと共に、騎士団は自国へ引き上げていった。
ニオという目的がなくなったのだ、戦争を続ける理由はもうない。
「ユカ……おまえは、ニオを……ッ」
和歌が怒り爆発寸前で、なんとか堪えて声を絞り出す。
ユカと和歌の間に、作り出した人々の捉え方に大きな隔たりがあるのは分かっていた。
すぐに作り直せる、そう考えるユカと、まったく同じ人間は作れない……つまり分解は殺人と同義だと考える和歌。
……和歌が怒り、ユカに自覚がないのも頷ける。
だからそういう感情の問題は棚上げにして。
「――オットイの気持ちは考えなかったのか……ッ?」
ユカのことだ、相談もなくその場の勢いで分解したのだろう……ニオが賛成しても、オットイは絶対に反対するはずだ。
彼にとって、ニオは道しるべであったのだから。
段階を踏んで、妹離れをするならまだしも、突然いなくなってもオットイが急に一人で立ち上がれるわけではない。
そのまま塞ぎ込んで、今以上に人間不信になってしまう。
「だからさぁ、ニオにも言ったけどすぐに作り直すよ。オットイだってそれで納得するでしょ。ニオがいればいいんだからさあ」
「だからッ、同じ人間は作れないんだよ……っ! いくら姿形を真似ようとも、お前が分解したニオは、二度と戻ってはこないんだ……ッ!」
「細かいなぁ。じゃあ見ててよ、再構築したニオを見れば先輩も分かるはずだから」
そう言って、ユカが杖を振るい、新たな人間を創造し始めた。
「ニオの姿は覚えてるし、オットイと双子だってこと、わたしが昔、海賊に攫われたニオを助けた記憶に……わたしを慕う好意の感情を加えれば、元通りのニオになるよ」
そうして出来上がったのは、確かに分解されたはずのニオだ。
まだ、この時点では姿形に限れば、である。
青みがかった黒髪、褐色の肌、動きやすく肩と太ももを大胆に出した服装。
彼女のまぶたが、ゆっくりと持ち上がる。
「おはよう、ニオ」
彼女はきょとんした表情を浮かべ、視線を回す。
状況を把握した、というより、頭の中にあった記憶を探って現在を推測、台本を目で追って読むような話し方だった。
「おはようございます神様っ、大好きですっ!」
ニオは当然として、ユカは納得したようにうんうん頷いている。
つまり、彼女はこのニオについて、まったく違和感を抱いていない。
「ね、先輩。ニオでしょ?」
「……これが……ニオだと? ニオだと思えるのか? この子を……」
和歌が言葉を選んだ。
ニオを前にして、これだの、おかしいだのと言うのは、彼女を不安にさせてしまう。
以前とは違うニオとは言え、今のニオに罪はない。
「あの、神様……、その……」
ニオが顔を赤くし、もじもじと落ち着かない様子だ。
以前のニオには見られなかった……見る機会がなかっただけかもしれないが。
「どうしたの?」
「それが……その……」
片手で、もう片腕を掴んだり擦ったり、短パンを引っ張ってみたり、緊張を誤魔化す仕草なのかと思っていたが、以前のニオにはなかった羞恥が生まれたのだとすれば……、
「ニオ、その服が恥ずかしいのか?」
「……っ、はい……。肌が出てて、見られているのが、少し……」
反応からして少し程度ではないだろう、相当恥ずかしいはずだ。
それを押さえているのは、彼女の中に恥ずかしいという感情は元々なかったのに、自然と沸き上がる羞恥を欠陥だと感じているからか。
……ユカの方法では、こういうツギハギな部分が目立ってくる。
情報だけを詰め込んでも持って生まれる人格が介入すれば情報との齟齬が生まれ、人間性は期待通りには育まれない。
思っていた着地点が変わってくる。
既に、以前のニオとは違う、大きな変化が見られていた。
「動きやすい服がいいってニオが言ったのに」
「……そうみたいですけど、できれば――」
と、途中でニオが言い淀んだ。
顔を伏せてしまった彼女に、和歌が問いかける。
「仮に、着れるとしたらどういう服がいいんだ?」
人差し指同士をくっつけながら、ニオが呟いた。
「…………可愛い服が、着てみたいです……っ」
聞いて、和歌がくすりと笑った。
――見た目は紛うことなきニオであり、だからこそ和歌も以前のイメージに仕方なく引っ張られていたが、これで確信した、見間違うこともない。
彼女はニオの見た目をした、まったくの別人だ。
中途半端に記憶をいじられ、身に覚えのない知識を詰め込まれ、外に放り出され……生み出してくれたユカは、希望する他の誰かを演じろと強制している……。
望まれた以前のニオにはなく、目の前の彼女が意識しているのは、可愛さだ。
そうなると、根本的なところで彼女は本来のニオとは百八十度も違うはずだ。
きっと、率先して前に出るようなタイプではない。
もちろん、兄であるオットイを守ろうと、手を差し伸べて引っ張ることもない。
……本来であれば。ただ記憶と知識が『そうしないとならない』と強制してくるため、彼女はやりたくもないことを笑顔でやらなくてはならない状況になっている。
頼れる人物はユカだけだが、元凶はユカであるため、生き地獄である。
彼女が縋れる誰かは……、残されているのは――、
「ニオ。オットイのことは……」
彼女が一瞬、思考を巡らせ、あっ、と気付いたようだ。
「わたしには、お兄ちゃんがいるんですよね!」
呼び方の違いは、これまでの向き合い方とは違うという証明になるだろう。
「………………ニオ、ちゃ、ん………………?」
見た目は同じだ、生まれた時から一緒にいた妹の顔を間違うはずもない。
消えかかっていた記憶の中にいる妹を、ぎりぎりで繋ぎ止められた。
意識の覚醒と共に、段々と克明に思い出す。
握られた手の感触も変わりない。
目で見て、肌で触れ――だけど、話し方で分かる。
いや、それ以前に、こうして向き合えば嫌でも分かってしまった。
思い出したからこそ、浮彫になる。
…………誰?
ニオの見た目をした、オットイが知らない誰かだった。
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