第23話 魔王アヤノ
かつてのアヤノは、勇者ニオの侵攻に対して不審点を感じていた。
魔王城を警護していた魔族兵や幹部が続々と倒されているにもかかわらず、誰一人として命までは奪われていなかった。
致命傷にならない傷に、抑えられていた。
加減されていた、のなら納得できる。
しかし、勇者の方は、連戦で致命傷を負いながらも自分と同等、もしくは格上の相手と戦っている。
その上で加減しているのだとすれば、意図が掴めなかった。
「……前の勇者はあたしたちに嫌悪感を剥き出しにしてたのに……」
潔癖と言えるほど、魔物を見たら徹底的に殺す勇者だった。
散った肉片一つ残さず、魔法で焼き尽くすほどである。
典型的な、魔王側に伝わる勇者像そのままだったため、とても殺しやすかった。
なのに、今回の勇者はどうだ?
聞いていた話とまるで違うではないか。
アヤノは、抜いた心の中を刃を、下げるか構えたままにするか、迷ってしまった。
その心の隙が、勇者を部屋へ侵入させてしまう。
「勇……者…………っ!」
彼女は既に満身創痍だった。
元々軽装で、鎧を身に纏っていたわけではない。
最低限、急所や関節を守るための装甲がつけられただけだった。
……その全てが砕かれ、彼女のあちこちから血が流れていた。
集めた精霊の力でいくらか治癒がされているものの、治せるのは傷であって、連戦によって蓄積された疲労は別である。
歩き方がぎこちないのは、治療されても残る違和感と、疲労によって重たくなってしまった体を無理やりに動かしているからだ。
「ここが……、最上階……っ!」
ここに魔王がいることは、扉を開ける前に分かっていたはずだ。
気を抜いていたからアヤノは分からなかったが、本来なら近づいている勇者の気配は手に取るように分かる。
やろうと思えば扉越しに殺すことも可能だった。
そういう可能性を考えていなかった……にしても、魔王の部屋に入るのだ、剣は抜いておくべきだろう……。
精神的にも、不安があるはずなのに……。
勇者は、聖剣を鞘に収めたままで、抜こうとする気配もなかった。
……油断を誘っている?
奇襲した方が断然勝率は高そうなものだ。
アヤノは大仰な椅子に立てかけていた魔剣を手に取り、地面へ振り落とした。
石の床が砕け、アヤノが着ているドレスと同じく、禍々しい紫がかった黒色が、こぼした水のように地面へ広がっていく。
アヤノに似合わず大きな剣だ。
だが、軽々と持ち上げている。
剣の重量や、アヤノの細い腕の力は関係ない。
魔王にしか扱えない剣だ。
勇者が持つ聖剣と同じく――。
「……? どうして剣を抜かないの?」
「戦う理由がないから、かな」
「……あたしが魔王で、あなたが勇者――それこそが戦う理由になるはずだけど」
「わたしは、勇者だから魔王を滅ぼさなくちゃならないとは考えてないよ」
なら、なんのためにここまで上ってきたのか――アヤノは訝しんだ。
「もう、やめよう。魔王も勇者も、魔族も人間も、争うのはもうやめようッ!」
「な……ッ!?」
数百年どころではなく、数千年にも及ぶ、魔王と勇者の因縁が、初めて揺らいだ。
両者が共にいがみ合っていた――だが、考えてみれば互いに怨恨があるのはごく一部であり、先人がそう言ったから、で信じている者が大半だった。
世間がそう言っているのだから、正しいのだろう、と。
個人へ絞ってみれば、では魔王アヤノは、人間になにをされた?
自分からろくに近づかなかったはずだ。
近づいてくるのは使命を武器にした勇者のみ。
人間のことは脚色された見聞で知ってはいるものの、実物に詳しいわけではない。
実質、よく知らないようなものだ。
よく知らないものに、敵意を向けられるものなのか?
目の前の勇者が暴虐の限りを尽くし仲間を殺したならまだしも、彼女は正当防衛において傷を負わせただけだ。
しかも、殺されかけながらも手加減をして、殺さないようにしてくれている。
恨む方が難しい。
揺れ動く天秤の思考を途切れさせる、からんっ、という音が響いた。
勇者が、聖剣を投げ捨てたのだ。
「……ちょっ、え?」
「わたしは戦わない」
彼女が丸腰で近づいてくる。
「……ッ、ち、近づくなッッ!!」
魔剣を振るい、風と共に伸びていく禍々しい紫色の手に似た形をした刃が、勇者を囲うように螺旋を巻き、切っ先を皮膚の寸前で止めた。
彼女は歩みを止めなかった。
「うっ……」とアヤノが僅かに後じさる。
「たとえ茨の道でも、わたしはやり遂げると決めたの」
刃を厭わず進んだことで、彼女の皮膚が切っ先によって引き裂かれていく。
怪我を負っていた勇者は、今更、些細な傷など気にもしなかった。
さらに後じさったアヤノの踵が椅子にぶつかり、バランスを崩して椅子に尻餅をつく。
ふと目を離した隙に、勇者はさらに近づいてきていた。
「おかしいよ。みんな、魔王が悪い、魔族が悪い……って。あなたたちを悪者にしてなんでもかんでも押しつけて楽をしてる、責任逃れをしてる……。そんなの、あんまりだよ」
陰口を叩かれることなど、魔王魔族関係なくあらゆる場所で言われている。
誰もが一度は聞いたことがあるだろう。
気にしない者は気にしないし、気にする者も少し不快に思うくらいで、精々その場で庇う程度の行動力だ。
大局を変えようとはしない。
だけど彼女は違った。
世間のそういう風潮から変えようと行動を起こした。
勇者という立場を使い、伝統を壊してでも。
先人の想いを裏切ってでも――魔王との和解を選んだ。
「ずっと昔から……あなたを救いたかった」
覚えのある彼女の笑みに、自然と手が伸びた。
いつだったか、そんな笑顔を見せる少女を……、面影を残す、身も心も傷ついた少女を励ましたことがあった……。
彼女もその内の一人なのだろうか。
「今の世界は、今いる人間が、創るべきだよ――」
魔王と勇者の手が触れ合うその時、世界の明暗が反転し、時が止まった……。
静寂の中で、アヤノは勇者の背後に控える、先人の魔王たちの声を聞く。
『使命を、果たせ――』
そう繰り返されている。
勇者と魔王の使命は似ているが、受け継ぐ相手は違う場合がある。
勇者は素質がある者、数名を囲い込んで鍛錬を繰り返す。
表向き、血縁という縛りは設けているものの、時にはまったくの無関係な者が後継者になったりする。
比べて魔王は全てが直系の血族だ。
アヤノの母親、祖母、曾祖母……遡っていってもまったくの無関係な人物が魔王に選ばれることはまずない。
先人の意志を継ぐにあたって、言葉の重要性は両者にとって隔たりがある。
勇者にとって、親でもない遠い血縁の者から受け継いだ使命を捨てるのは難しくない。
だが、魔王にとって、使命とは親の願いだ。
幼少の思い出と共に蘇る約束である。
勇者のように、簡単に捨てることは許されないし、したくなかった。
「……………………ない、ぞ」
「え、……あ」
「勇者の口車なんかには乗らない!!」
魔剣が振るわれ、峰が勇者を打ち、部屋の壁まで吹き飛ばした。
人の形で凹んだ壁から、勇者が抜け落ち、床に倒れる。
遅れて、彼女の口から血が吐き出された。
「まっ……わたしは、騙そうと、なんか……ッ」
立ち上がろうとする勇者を見下ろす。
アヤノが魔剣を握る、その手に、懐かしく温かい手が重なった……気がした。
自分の意思とは関係なく、腕が上がる。
天に向いた魔剣が、重力に従い落ちていく。
アヤノはその場から動かず、魔剣の刀身が伸び、勇者に届いた。
「っ!」
勇者は真横に転がり、魔剣の一撃を防いだ。
刺さった魔剣が、壁に亀裂を入れ、崩壊させる。
勇者の視線が一瞬、捨てたはずの聖剣に向かったのをアヤノは見逃さなかった。
……勇者は、魔王を滅ぼすことしか頭にない。
どうせ、魔剣を振れば聖剣を手に取り、本性を現すはずだ。
嘘を吐き、騙し、油断したところを斬るのだろう。
危なかった……、とアヤノは魔剣を握る手に、力を込め直す。
ぐっ、と背中を押された気がして、アヤノはもう止まれない腕を振り下ろした。
刀身が床に叩きつけられ、破片が勢いよく舞い上がる。
それらに混ざり、赤い飛沫を散らす長い物体が見えた。
風圧に押しやられ、それが遙か後方へ飛んでいく。
聖剣は地面に落ちたまま。
飛んでいったのは、勇者の片腕だ。
「………………聖剣、を、なんで使わないのッ!!」
噴き出す肩の血を、片手で押さえる。
指の隙間から漏れる血が、足下へ垂れている。
「戦う、つもりなんて、ない……わたし、は――」
彼女は繰り返す。
痛みに曇った表情もすぐに笑顔に変わった。
「魔王を救うために、勇者になったんだから……っ」
アヤノの視界がぐにゃりと歪んだ。
――どっちが正しい?
どっちを信じればいい?
どっちを信じたい?
母親が果たせなかった、魔王の使命を果たす、幼い頃から交わしていた約束。
使命を捨て、身を犠牲にしてでも証明し、伸ばしてくれた勇者の手――。
勇者が悪者という根底が覆されそうになっている。
常識が揺らぎ、勇者は悪くない、と思っているのは他でもないアヤノ自身だ。
他人の言葉なら否定できたのに、自身の内から沸き上がる意見なら否定は難しい。
……どうしたらいい?
ふらり、とアヤノの平衡感覚がずれていく。
同時に、魔剣に流れていたアヤノの魔力が、蓋を閉じた器の容量を越える量も、気付けば注ぎ込まれていた。
器が割れるのは時間の問題である。
明滅する魔剣から溢れ出す、紫色を打ち消すほどの黒が、波のように流れ出した。
黒い波は勇者を飲み込み、魔王城の敷地、全ての床を黒で埋め尽くす。
アヤノが全てを吹っ切って、言った。
約束も、伸ばされた手も、どちらが正しく、どちらを取るか選べないのなら。
……選べないことで苦しむくらいなら。
「全部、壊れちゃえ」
そして、光りも音もなく、なんとも呆気なく、世界が壊れた。
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