第39話 前へ進む
視界の中で星が飛ぶ。
時々景色が赤く明滅する。
痛み。衝撃。
嵐の渦中に放り込まれ、なにがなんだか分からない間に、体力が削られていく。
どっちが地面で空なのかが分からないのは、まるで海で溺れた時のようだった。
そして、今は人々の波にのまれている。
「こんの……っ」
彩乃が我慢の限界に達し、ナイフを取り出したその時だ。
「――ダメっ、彩乃!」
結花千の叫び声に思わず体が反応し、彩乃の手がぴたっと止まった。
しかし、彩乃が止まっても人々の波は止まらない。
抵抗しなくなった彩乃を、ここぞとばかりに攻め続ける。
金色の髪の毛が強く引っ張られ、彩乃が激痛に顔をしかめる。
「いッ……!」
髪の毛を掴まれ、引きずり回される。
地面と近い彩乃は、多くの人々に踏まれていた。
見れば、結花千も同じような目に遭っていた。
なぜかは分からないが、女性が多く群がっているようにも見える。
彩乃の方にも、少なくはないが女性もいた。
比べて結花千の方が異常に多いのだ。
一人の女の子が、女の集団にグーで殴られ続けている光景というのも滅多に見ない。
彼女の顔はいつもより酷く歪んでいる。
……ここまでされても、抵抗をしてはいけないって?
結花千は、どうしてそこまで頑張れる?
彩乃は、気づけば集団の外にいた。
揉みくちゃにされている間に、渦中から外へと放り出されていたのだ。
無神論者たちの意識は、未だ渦中にいる結花千に向いている。
結花千がそこにいるからこそ、彩乃は無事にこうして外にいられるのだ。
殴られた頬が痛い。
地面を引きずり回され、擦り剥いた膝が熱い。
帰りたいと思った。
そして、さっきからむかついている。
さすがに、やり過ぎではないか、と。
「ゆかちーは反撃とか言うけど、身を守るための正当防衛なら、いいんじゃないの?」
落とさずに握ったままだったナイフを構えた。
しかし渦中の彼女はそれを見逃さない。
「彩乃!」
実際は殴られながら叫んだので、彩乃の名前は途切れ途切れに呼ばれていた。
それでも、その次の言わんとしている事も含めて伝わった。
「なんで……」
彩乃も叫び返す。
相手はただの作り物なのに、代替品が存在するのに、大事にする理由が分からない。
「こいつらのなにがいいわけ!?」
彩乃にはいくら考えても分からない。
けれど結花千だったら分かる。
結局、その違いは彼女たちの、向こうの世界での生活に由来するのだから。
「良い悪い関係ないよ。あたしにとっては、少ない繋がり……今じゃなくてもこれから繋がるかもしれない人たちだもん」
たとえ、作り物として生まれたのだとしても。
集団の中にいる結花千の声は、なぜかはっきりと彩乃には聞こえた。
「でも生きてるんだよ。あたしたちと同じように、痛みを感じて。……それに、彩乃に誰かを殺してほしくないよ。実姫だって、先輩だって、それは同じ。人としての倫理観を狂わせたまま元の世界に戻れば、カッとなった衝動で思わず手が出てしまうかもしれない。人との付き合いが多い彩乃には、そのタイミングが多過ぎるもん」
ここと向こうは違う。
結花千たちは神だが、ただの女子高生だ。
向こうでは家族と法律に守られていなければ、生活だってできない。
「そんな、事……、ゆかちーのくせに……」
結花千らしくない言葉だった。
だけど、らしさを語れるほど彼女の事を知る彩乃ではない。
逆に、結花千だって、らしさを語れるほどに彩乃を知るわけではない。
出会ってまだ数日しか共に過ごしていない。
分かったような口を利かれるのは癪だ。
だから、今築き上げている人間関係から分かる事を言っているだけに過ぎない。
結花千の言っている事は、大分当たっているな、と彩乃は思ったものだが。
……思わず手を出してしまう事は、あるかもしれない。
向こうの世界で、もしも手元にナイフがあれば……、と考えると。
……向こうでナイフは持たない方がいいね、と彩乃は自分の危うさを自覚した。
そして今も。
彼女は手に持つナイフを地面に落とす。
こんなものは、今は必要ないのだ。
「もしもこのまま殺し続けていたら……」
彩乃は引き返せないところまでいっていた。
きっと結花千はそこまで考えてはいないだろうし、世界を今まで通りに回す事を目的として殺さない方法を選んでいるだけなのかもしれない。
理由がどうあれ、だけど彩乃は気づかされたのだ。
そのあたりは、彩乃よりも一年先に生まれた、先輩らしさだ。
「ちょっとは見直したかも、ゆかち先輩」
結花千は動きを止めた彩乃を見て安堵をする。
彼女は、ナイフを落としてくれた。
これで彩乃に注目が集まる事はないだろう。
しかし彩乃も神だ。
結花千が終われば、次は彩乃である。
そうなる前に、この場から早く逃げてと願う。
ニャオを救う決断をしたのは結花千だ。
ニャオのためならばどんな痛みも我慢できる。
だが、それを彩乃にまで強要する気はない。
最初から覚悟をしていたのだ。
これは、孤独の戦いなのだと。
ここまで手伝ってくれたのが奇跡みたいなものだ。
そこで結花千は、一瞬の光の瞬きを見た。
一番星のような煌めきだった。
次の瞬間には、結花千の太ももに灼熱が広がる。
目線を下げれば、太ももにはナイフが深く突き刺さっていた。
刺した張本人は、小さな子供だった。
その男の子はナイフを離した手を震わせながら、人混みの中へと消えて行く。
がくんっ、と体を支えられなかった足が崩れる。
膝を地面に着き、身動きが取れない。
殴られ続ける渦中で、多少の防御もできるようにはなっていたが、今の一刺しでそれも満足にできなくなる。
それ以前に、頭の中は激痛の赤一色で染まっていた。
どっと汗が出る。
服の下に直接大量の水を入れられたような感覚だった。
「――――っ!」
それは、声にならない悲鳴だった。
聞こえなかったから、というのは関係ない。
もしも聞こえていたとしても、周囲の無神論者は攻撃をやめなかっただろう。
今のように、倒れる結花千を足蹴にするはずだ。
ニャオを助けるんだ。
痛い。
前へ進まなくちゃ。
痛い。
一歩でも多く。
痛い。
痛い。
…………痛いのは、もう嫌だ。
結花千の目の前には誘惑があった。
痛みから逃げたければ、ニャオを見捨てればいい。
それができる環境であるし、誰もその選択を咎めない。
ニャオ自身だって、結花千の今の心情を吐露されれば、きっと頷くはずだ。
結花千を一番に考えるのがニャオだからだ。
繰り返すが、作り物であり、代替品である。
結局は、結花千の気持ち次第でもあったりする。
ニャオだと思えば、実際に同じでなくとも、新たに生まれた彼女はニャオである。
逃げたくなれば逃げればいいんだ。
結花千はいつだって、そうしてきた。
だが、
「……足を止めて、やるもんか」
誘惑は、大きく振りかぶった腕によって薙ぎ払われた。
ニャオの顔を思い出せば、どんな痛みも緩和され、失いかけた心も取り戻せる。
自分のためだったら諦めていた。
だけど大切な人のためであれば足は何度も動くのだ。
「こんな、ところで……止まってなんかいられない!」
結花千はアドレナリンが出ているのか、太もものナイフを力強く引き抜いた。
その痛みを感じていないかのように、彼女は前しか見ていなかった。
踏み出す。
だけど痛みは感じていなくとも体は疲労を蓄積している。
体を支えられなくて前のめりに倒れる。
地面に手をついて、踏ん張って、結花千は前へ、前へ。
いくつかの光の瞬きが、結花千の後ろに迫っていた。
ナイフの切っ先が降り下ろされていたが、結花千は気づかない。
ナイフの軌道は、結花千の背中へと繋がっている。
どすっ、という音を聞いた結花千は、後ろを見て目を見開いた。
刺されたのは結花千ではない。
……彩乃だった。
「痛っ、い、ね……。そっか。わたしは、色んな人に、こんな痛みを、味わわせていたんだね……」
彩乃が体を倒す。
抱き合うように、結花千と彩乃が体をくっつけた。
互いを支え合っているようにも見えた。
まるで、人という字のように。
「彩乃、あやの、あやっ、のっ!」
「テンパり過ぎ……わたしは死んでも、どっかで復活するし……」
そういう問題ではないのだ。
復活するから死んでも大丈夫と思えるわけがない。
それこそ元の世界でそう思われてしまったら、危険に鈍感になる。
どうせ生き返るし、そう思っていても元の世界では一度きりの命である。
結花千は再認識する。
彩乃は、生死について危う過ぎる。
「ゆかちーに気づかされたから、もうこれっきり。ゆかちーの心配は、いらないよ……」
彩乃の危うさは今だけだ。
……でも、どうして、今だけ……?
きょとんとしている結花千へ、彩乃が笑って答えた。
ばーか、と言いたげな表情を付け加えて。
「ゆかちーをニャオの元へ送り届ける。それが、今のわたしの役割なんだから」
彩乃は他の二人のように、結花千への憧れも嫉妬もない。
だけど、期待はしている。
今の世界の混乱をなんとかしてくれるだろう、と。
正直、ニャオがどうなろうと関係なかったのだが……世界を救うついでに救い出せるなら、救い出してしまえばいいのだ。
その方が面白いから。
彩乃は決まって、そう言った。
「わたしが死ぬまで、盾になるよ。だからゆかちー……」
彩乃は結花千の頬にキスをした。
とても軽い気持ちで、挨拶代わりにするようなものだ。
ただし今回は、勝利の女神の願いも込めて――。
「今はただ、前へ」
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