第32話 人質

 もしも、彩乃とニャオの会話を盗み聞きしていたとすれば。


 もしくはずっと前からニャオと神の関係を知っていて、観察していたとすれば。


 この場で攫う事が、彼、もしくは彼らの作戦なのだとしたら――。


「ニャオを使って、神を誘き出す、とか? 人質、って事だもんね」


 彩乃がもしも無神論者であればそう利用する。

 今の立場でこそ知り得た情報を知っているという前提で出た発想だが。


 ……あの男が、彩乃ほどではないにしろニャオが結花千に信頼されているという情報を知っていれば、利用しよう、という発想はできるはずだ。


 だったら、攫った理由として納得できる。

 じゃあ、どうやって結花千に伝える?


 思考する彩乃は、彼が持つ拳銃を思い出した。


「――放送、だろうねえ。じゃあ都市に向かったと考えるべきかも」


 その時だった。

 彩乃の肩が力強く引っ張られた。


 彼女の背中が、とんっ、と厚い胸板に寄りかかる。

 彩乃に助けを求めた若い男が、ここまで走って加勢に来たのだ。


 彼は息を荒くしながら、


「――大丈夫か!?」


「……大丈夫。心配は無用だから、汗だらけの体で近づかないで」


 離れた彼は察した。

 ニャオの姿が、どこにもない。


「海へ逃げた、のか……? 方向は!?」

「さあね。追いかけなくていいよー」


 彼は冷静だった。

 納得はしてなさそうだが……。

 脳筋集団の中でも、頭は働く方だ。


「ニャオは人質ね。神に交換条件を出すか、誘き出すための餌か……」


 尚更追いかけるべきでは、と男が言うが、彩乃は否定する。


「向こうからアクションがあるはずだからね。それを待ってからでも遅くはないし」


 男はしかし後手になる事を恐れていた。

 今すぐ発つべきだと主張するが、彩乃は、


「状況を見てみれば? 船員の八割が怪我をしていて動ける? ま、好きにすれば? 傷を開きたいならしたい人がすればいいんだし」


 港の仲間を思い出せば、彼も向かうべきだとは言えなかった。


「それにあんたらはなんでもするって言ったしね。わたしの言う事、聞いてもらうから」


 肩に手をぽん、と置かれた男は警戒をし、彩乃を見る。

 彼女は満面の笑みだった。


「……あんた、一体なにをやらせるつもりだよ……」


 べっつにー、と彩乃がおどけた口調で言う。


「奴らの居場所を突き止めるための、ただの雑用ってだけ」



 怪我人の治療を終え、休息を取ったのは朝である。

 同時に船で移動しており、寝て起きたら都市に辿り着いていた。


 無神論者の振りをして貸しビルの大部屋を取り、テレビとラジオに張り付いていたら、近くのビルで演説が始まった。

 見なくとも、声で実姫であると分かった。


 やがて築き上げられた死体の山に唖然とする船員の中、テレビ画面が暗転する。

 薄暗い部屋が見え、次に映ったのは、椅子に縛られている、ニャオだった。




「なんで、ニャオがそこに……っ!」


 手すりを握りしめる力がさらに強まる。

 結花千は自分の下唇を無意識に噛んでおり、つーと血が滴り落ちている事に気づいていなかった。

 手の甲に、血がぽたっと着地する。


 映像内のニャオは、頬が青くなっており、口元が腫れている。

 強く殴られた証拠だ。

 長かった髪がばっさりと切られており、褐色の肌にもいくつか切り傷があった。


 手足を縛られ目隠しされたまま、彼女はこうして映像が出る前から、痛めつけられていたのだ。


 彼女は、今の状況が放送されている事を知らないだろう。


「先輩っ、口から、血が……っ」


 実姫がハンカチを差し出す。

 だが結花千は目を向けず、小刻みに体が震えていた。


 結花千を見て、実姫が数歩後退する。


 ……先輩の姿に、恐怖した? 


 彼女から迸る赤い湯気のようなものは、怒りか――。

 すると、映像に動きがあった。


 ニャオの近くに映る男……顔は見えないので特定はできない。

 彼がナイフをニャオの頬へ這わせ、刃を立てた。


 彼の声は、当然加工されている。

 甲高く、男か女か分からない。


『神がどこに潜伏しているか、答える気にはなったのかい……?』

『……なるわけない。言うもんか! お前なんかに教える事はなにもない!』


 そうかい、と、男はナイフでニャオの顔の皮膚を、少しだけ切った。


「ッ!」


 綺麗な顔に傷がつく。

 結花千は画面の男を睨み付けた。


「……悪趣味だ」

 

 和歌がぼそりと言った。


 神の潜伏先を聞いているが――もちろん、それも目的の一つかもしれない。

 口を割ればその情報を拡散し、無神論者を神の元へ誘導させる事ができる。


 しかし、こうして放送している時点で、大体の役目は終えているのだ。

 こちらには人質がいる、そう思わせた時点で奴らの優位だ。


 多少は傷つける必要もあるかもしれないが、映像を見る限り、男の趣味に感じる。

 だから和歌は軽蔑を込めて言ったのだ――悪趣味だと。


 加工した声でも、言葉の調子で興奮している事がよく分かる。


『おぉ、ナイフを這わせただけで体が震えるようになったじゃないか。ようやく体が恐怖を覚えたのかい?』

『っ、はっ、はぁ……』


 ――短くなったニャオの髪が強く引っ張られる。

 椅子が倒れ、小さな悲鳴と共にニャオがカメラのフレームからはずれてしまった。


 男の足が上がり、靴の裏が、ニャオの頭へ――


「やめッ」


 結花千は声にならない。


 ガッ、と鈍い音がした後、男が髪を掴み、ニャオを引っ張り上げる。


 目隠しを取って見えたニャオの顔は、酷いものだった。

 まぶたが腫れ、僅かに見える瞳は焦点が合わない。


 実姫が口に手を当て、和歌が舌打ちをし、結花千が手すりに足をかけ、乗り上げた。


「……どこにいる」

『どこにいるのか、そう思った神がいるだろうねえ』


 映像の中の男が言う。

 まるでこちらが見えているかのように。


『ゆかち、と言ったかねえ?』


 四人の神が目を見開く。

 男には分かりようもないが、面白がって笑っていた。


『こいつを、とある場所に置いておく。取りに来るかどうかは好きにしなあ。ただし、長時間も無事に済むとは思わない方がいいねえ。…………場所は後ほど、映像で知らせる。なにも持たずに、暴虐の神……ゆかち、お前がたった一人で取りに来いッ!』


『神様っ! 私の事は構わず、こないでください! そこにはたくさんの敵が――!?』

『このガキ! 余計な事を言うん』


 ブチッ、と映像が切断された。

 静寂の中、結花千が槍を握り、飛び降りようとしたが、


「落ち着け。ひとまず、あいつの話を聞こう。ゆかの知り合い、だろ?」


 彼女の足を掴んで止めたのは、和歌だった。


 彼女が指差した方へ向くと、海賊仲間の若い男がいた。

 息を荒くし、走って来たのだろう。

 彩乃に指示され、ここまで来たのだ。


 用件は一つ。

 彩乃の元へ、彼女たちを案内する事。


「……船長」


 結花千は、若い男と無言ですれ違う。

 今だけは、神としては振る舞えないと自覚していたのだ。


 彼は関係ない。

 だから、八つ当たりはできない、と。


「危ういな」


 ――和歌が言った。

 ……実姫も、それには同感だった。

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