「間違いな日本語」について思うこと

凪常サツキ

誤用とされている日本語

ら抜き言葉はちゃんとした「変化」


 ら抜き言葉というのは、「けしからん日本語」の代表例でしょう。なぜって、実は会話の中に表れ始めたのは昭和の初期といわれているからです(文化庁「I言葉遣いに関すること」https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kakuki/20/tosin03/09.html)。要するに百年もの間、一定の人たちから「言葉の乱れ」といわれていたわけです。

 ちなみに私は日本語学の立場をとっているため、こうした乱れはあらかた「変化」としてとらえています。それが生理的に受け付けないものでも私の中ではです。



〈合理的なら抜き言葉〉

 さてさて、今更ら抜き言葉について新しい説を唱えようなんてことはしませんから、今回は二つ論点をお話します。一つは、ら抜き言葉が「合理的」であるという点です。口語文法の尊敬の助動詞「れる・られる」は「受け身・尊敬・自発・可能」と、意味を四つも持っていますから、識別は文脈で見るしかないのです。そこで最も使用頻度が高い可能の意味の「れる・られる」だけ「る・れる」とすれば、言語理解の負担がなくなります。

①先生が怪獣に食べられた

②先生がお弁当を食べられる

③先生のことが自然と思い出される

④先生は何でも食べられる

 この四つの中で、ら抜きできるのは④だけです。

④´先生は何でも食べれる

その他の文は

①´*先生が怪獣に食べれた

②´*先生がお弁当を食べれる

③´*先生のことが自然と思い出さる

 となってしまい、意味が分からなくなってしまいます。(ちなみに*は、学問上ありえないというマークです)



〈乱れじゃない、変化です〉

 そしてもう一つお話したいのが、ら抜き言葉だってきちんと「言語の変化」であるということです。

 突然ですが、食べられる・食べれるをアルファベットで書いてみましょう

 taberareru tabereru

 食べられるを食べれるにするためには、確かに「ra」を抜けばいいことがわかります。しかし、もう一つ、食べられるを食べれるに変化させる抜き方があるのです。それは……

 taber(ar)eru tabereru

 そう、arを抜いても食べれるになるのです。これはどのら抜き言葉でも一緒のことです。

 でもこれは一体何に役立つのということですが……。「行く」を可能の形は「行ける」です。でも、古い言い方では「行かれる」と言います。これもアルファベットにすると

 ikareru ikeru

 と、「ar」が抜かれていることがわかります。そしてここではみんな大嫌いな「ら」を抜くことができないのです。

 つまりら抜き言葉は本来は「ar」抜き言葉で、正真正銘、日本語の変化ということになります。






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