第2話 檸檬

戸田はバイト帰りに煙草を買いにコンビニに立ち寄った。

店内に入ってからふと目をやった雑誌棚の前に、見覚えのある男が立ち読みしている姿を見つけた。草野光一だった。

戸田はすぐに視線は外し、飲み込んだ唾の音が店内に響いたように思えた。


戸田が草野の存在を知ったのは4年前だった。

その時戸田は大学生3年生で、駒沢にある、付き合って4ヶ月になる葉子が借りている部屋で生活していた。

戸田は大学の側にあるレンタルビデオショップでバイトをしていて、葉子とはそこで知り合った。サークルに属していなく友人も少ない戸田は、授業とバイト以外を自由な時間として有していたため、人付き合いも多く、活発な葉子に対する嫉妬に費やす時間が多かった。葉子の部屋に住みだしてから4ヶ月が経とうとしていた9月のある晩、葉子から「サチコんちに泊まりますんで」というメールがあり、長い夜を持て余した戸田は、本棚の中から梶井基次郎の「檸檬」を見つけた。

暇な時は妄想に打ち勝つため、ゲームに打ち込む戸田だったが、薄い文庫本を手にした戸田は、これなら久々の読書でも飽きずに読める長さだな、と思った。

本のタイトルと同名の「檸檬」を読み終えた時に、初めてこの本が短編集だと気が付いた戸田は、次話を読み始める前に、10分ほど歩いた先にある、深夜まで営業している大型スーパーへ出掛けた。


 ―いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈(たけ)の詰まった紡錘形の恰好(かっこう)も。―

「檸檬」の一文が気になり、普段は最寄のコンビニで用を済ます戸田は、その晩に限って、レモン見たさで公園先のスーパーに向かったのだが、着いて間もなくして後悔する場面に出会った。

青果売り場へ辿り着く直前の酒類を陳列しているコーナーで、見知らぬ男と手を繋ぎ、楽しそうにワインを選んでいる葉子を見てしまった。

ワインボトルを持つ指先の鮮やかなマニキュアを見て、自分の知らない葉子の存在を認め、戸田はスーパーの入り口に戻り、街道を渡ったスーパーの向かいのガードレールに腰をかけて、ポケットからセブンスターを出して火を点けた。男は自分と同じくらいの年齢で、ギターを背負っており、細くてナイーヴな印象だった。

高鳴る動悸から貧乏揺すりの止まらない戸田は、買い物を終えてスーパーから出てくる葉子と男の跡を追った。スーパーから2つの角を曲がった右手にある、

中層の賃貸マンションに入る2人を見た戸田は、高鳴る胸を抑える事も出来ずに、エレベーターホールへ向かった。エレベータは5階で止まった。2人がエレベーターを5階でおりた事を確認した戸田は、マンションのベランダに面した道に出て、5階の部屋を見ていた。左の角部屋に電気が点ったのを見届けた戸田は、ポストが並ぶエントランスに再び入り、5階住人のポストの両端の部屋、501号室と509号室を見た。501号室には何の表示もなく、509号室にはガムテープが張られ、「転出しました。郵便局にて転出手続き済」と書かれていた。戸田は501号室のポストに投函されっぱなしの封書に書いてある「草野光一」の文字を目に焼き付け、ベランダの前の通りから灯りが零れる501号室を睨みながら、何度も名前を復唱しながら、握った拳の収めどころを失っていた。

どれくらい時間が経ったのか解からなかったが、怒りが虚しさとの比率を逆転されたころ、どういう道順で帰ったかも思い出せない体たらくでベッドに身を沈めた。

「天気がいいから満月が見えるよ」と打ったメールには返事が来なかった。


その後、1年間、多少の諍いはあったにせよ、戸田と葉子の関係は続き、戸田は忘れたくても胸中に焼きついた感情を押し殺し、苦しんだ。後を付けた事が戸田にとって、自らの卑しさを具現化している気がし、葉子にその旨を話した結果に別れが訪れる事を恐れた。偶に葉子が帰宅しない晩があり、その度戸田は必ずスーパーでレモンを買ってから、草野光一が住む部屋を見上げに出掛けた。

葉子の高校時代からの友人が上京して来て2週間ほど葉子の部屋に泊まっていた時、葉子がサークルの行事で留守にしていた間に、戸田は思い切って草野光一の名前を聞いた事がないか、友人に尋ねてみた。友人は飲んでいた紅茶を溢すほど動揺し、知らない振りをしようとしていたが、自身のあまりの動揺振りに観念して、重い口を開いた。草野は葉子の幼馴染で、中学生の頃から付き合っており、草野が大学受験に失敗して田舎に残る事が決まった時2人は別れた。浪人した草野は都内の大学に進学したが、間もなくして借りたばかりの賃貸マンションで倒れ、進行具合によってはいつ死に至ってもおかしくない、治る見込みのない病気にかかっていると診断されたらしく、その話を友人の友人経由で聞いた葉子は堪らなくなって、再び関係が続いているのだ、と教えてくれた。戸田は自分が付き合う前から続いている、その忌々しい関係を呪ったが、友人は尚も続けた。あの2人の関係は終わらないわよ、彼が死んでも終わらないのよ、と言って口の端が笑った。

戸田はその晩その友人と寝て、翌朝には荷物をまとめて葉子の部屋を後にした。大学構内で何度か姿を見かけたが戸田は葉子に声を掛けなかったし、葉子もそうだった。

葉子は戸田が去った部屋に戻ってから、電話、メールすら寄越さなかったのだ。

戸田は悔しさを抱きつつ、草野光一の病症を気に掛けた。

悪くならなければいいな、と思いつつ、もう死んだのだろうか、死んだだろうと、大学在学中はしばしば頭に浮かんできたものだったが、就職した会社を辞めた頃にはすっかり思い出すこともなく暮していた。

新しいバイト先はイタリア料理を出す飲食店で、今まで調理等に興味すらなかった戸田は初めて、熱中して料理に情熱を傾ける人間が居る理由を知り、自分自身仕事に夢中になった。


戸田はコンビニのレジで、セブンスターを買った。

全身の意識が雑誌棚の前に居る草野光一に向かっていたため、強張った体はレジから振り返ることが出来なかった。お釣りと煙草をポケットに仕舞おうとした時、ポケットの中に料理場から失敬してきた傷みかけたレモンが入っていた事に気がついた。

戸田はゆっくりと歩み、雑誌棚に向かった。色々な言葉が現れては消え、現れては消え、気がついたときには既に草野光一の脇に立っていた。

草野光一が開いていた雑誌の上に、黙ってレモンを置いた。

すっかり読み耽っていた草野は、突然の戸田の行動に驚き、ハッと身を引いた。

拍子にレモンは雑誌から落ち、雑誌棚の下に転がっていった。

戸田は気にすることなく身を翻して別の売り場へ向かった。

草野光一が驚きが消えていない瞳で戸田を見つめる中、戸田は商品を手にしてレジに向かい、会計を済ませた。戸田は草野光一の方を一瞥もなく、店の外に出た。

戸田は「檸檬」の文末の内容を思い出していた。

どうしても思い出せなかったが、どうでもいい気がした。先程買ったメロン味のフルーチェを、なるべく早く帰宅して腹いっぱい食べたかった。

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