ハウス食品 フルーチェ [メロン]

秋ニ番

第1話 歯磨き

吉田はマンションのエレベーターの前で立ち止まっている。

上向きの三角が裏刷りしてある釦を押せば、間もなくしてエレベーターはエントランスフロアまで降りてくる。

妻子の待つ自宅への到着目前で、今日の吉田の脚が進まない。

吉田は釦を睨んだまま、上着の右ポケットに入っているiPodの、曲送り釦をしきりに押し続けている。


今朝の出社前に妻とちょっとした喧嘩をしたことが、エレベーターへ乗ることに躊躇している原因である。

7時前に自宅を出なければならない吉田にとっては、自分が起床する前に妻が起き、朝食の準備をすることが不憫でならなかった。吉田は就寝時刻が遅く、朝起きは毎朝のことであるにせよ、枕から離れるのが惜しいのだが、それでも片道2時間程度、電車で夢の続きを見ることが出来る。吉田より早く起きなければならない妻は、夜は2人の子供を寝かしつけた後も家事の残りをこなし、朝起きた後は子供のための諸々の準備、子供を送り出した後は近所のデパートでのパートに行くため、睡眠時間が日常的に少ない。この頃は溜まった疲れのせいか、手湿疹がさらに悪化しているようだった。吉田の通勤時間が長いことがよくないのだが、都心から近い場所に居を構えるほどの給与はなく、不景気により社宅制度が廃止になった折から、妻の協力も得た上での、身の丈にあった値段で購入できる、郊外のマンションを手に入れたのだった。

今朝、テーブルを布巾で拭いている妻のささくれ立ち、水気のないキレギレになった手を見て、吉田は日頃から考えていた提案を妻にぶつけてみた。吉田としたら思い遣りのつもりだったのである。

内容はこうだ。平日の吉田への朝食は作らなくてよい。駅途中のコンビニでおにぎりか何かを買って、食べ歩くことにする、と。妻はその言葉を聞いてテーブルを拭く手を止め、、吉田と合っていた目線をゆっくりを外し、溜息と共に背を向けた。立ったまま、搾り出すようにこう言った。

「私は今までこの生活が辛いと思ったことはないし、晩御飯の残りを朝食を使わないことが私のプライドなの。一緒に12年暮しててそんなことにも気がつかないの?」

自分としては妻のことを気遣った上での提案だった為、吉田も退くには退けず、そこまで言うならもっと簡便な朝食にする、という妻の提案も受け入れられなかった。簡便とはいえ、水を使うことを避けるわけにはいかない上、晩のうちに朝食の米を研ぐ仕事をさせたくなかったのだ。吉田は軽く小麦アレルギーを持っているので、子供達の朝食のように、パン食という訳にもいかなかった。その、ちょっとした気持ちの行き違いが、姑との関係の話にまで渡ってしまい、すっかり気が塞がったまま家を出る羽目になったのだった。

勤務中、何度か妻からメールがあり、2、3行目を通しただけでも気が滅入り、全て返信せずに無視したのであった。


勇気というよりも、諦念によって吉田はエレベーターホールから自宅に向かった。

エレベーターの、「乗り込む」感覚、と、自宅のフロアに着いた時の「踏み出す」感覚に抵抗があったので、一段一段迫ってくる重い空気を噛締めながら歩まなければならない、階段を選んだ。

2階から3階へ向かう階段の踊り場で、窓を開けてポケットからマイルドセブンライトを取り出した吉田は、紫煙の中に希望を見出すことが出来ないとわかりつつも、ゆっくりと煙草の煙を闇の中に吐き出した。

子供を起こすといけないので、そっと鍵を開けて中に入る。「ただいま」も発声しない。深呼吸して戸を開けた居間には、電気が点いているものの、人の気配はせず、安堵した。寝室を覗き込んでみると、子供達の間で妻は寝入っていた。吉田はそっと布団を掛けてやり、子供たちの顔を眺めた。寝顔の方が整って見えた。


翌朝、吉田は妻に起こされた時、昨夜の揉め事について忘れていた。

ベッドの横にあるサイドボードにある眼鏡を掛けた途端、視界が冴えたと同時に、気まずさが湧き返ってきた。重い頭と重い気分を引き摺りながら食卓に向かうと、妻は薄い箱と、空の皿、匙、一杯の牛乳を盆に乗せて来た。

吉田は盆を見つめ、一呼吸してから、黙って箱から袋を取り出して開封し、皿に中身を空けて牛乳を注いだ。匙で手早く皿の中をかき回しながら、「これなら問題無いわよね?」という妻の声に対し、頷いた。

フルーチェのメロンの完熟した甘さが吉田の胸に広がり、玄関で靴を履く時まで、後味の爽やかさとねっとりした優しさが口の中に残った。

吉田は電車で歯磨きペーストの広告を目にするまで、歯を磨いていないことに気がつかないでいた。

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