紅血月姫

薪原カナユキ

第1話

「すごいのぉ」


 月を背に地上を見下ろす人物は、素直な驚愕による声を漏らす。

 腰から生えた黒い蝙蝠こうもりの翼をゆったりと羽ばたかせるソレは、妖しく光る赤と青の虹彩異色こうさいいしょくの瞳を持っていた。


 目を細めて下を見渡すと、地上を埋めるは数えきれない程の人々。

 誰も彼も武具を身に纏い、空を舞う異形を睨みつけて待ち受ける。

 

「――では行くかの」


 夜間の散歩とばかりに、飛翔と言えない緩やかな軌道で降りるソレは、地上にできた自身の影から自分以上の異形を作り出していく。


 視認できない影の猫、壊されても動き続ける球体関節人形、トランプの体をした兵士たち。

 彼らが人々の血を流すたび、月明かりは赤黒い色素に染められていく。


 人ではない何かが地に降り立った時に漂っていたのは、鉄の臭いを運ぶ温い夜風。

 見上げると他の星など知らぬとばかりに、空へと浮かぶ満ちた月が狂気を纏いて赤く輝く。


 熱きヒの王は、既に闇へと堕落した。

 極夜きょくやを統べるは絢爛けんらんに振る舞うシンの女王。

 彼女が見下す地平の傍ら、一柱の人ならざる者が踊り狂う。

 

 は生者の生き血を啜る者。

 紅玉と海色を瞳に宿し、胴より異形の黒翼こくよくを羽ばたかせる。

 黒と紅の衣装に身を包む、か弱い白化の血濡れた童女きゅうけつき

 月に代わると傲慢ごうまんにも語る、紅の音色を奏でる吸血の姫。


 その名は――月代つきしろ紅音あかね


「んー、こんなものかの」


 さほど高くない背丈の彼女は、腕を組んで背筋を伸ばし深く深く、何度も大きく息を吸う。

 漂う香りを満喫しながら、跳ねる心を落ち着かせる。

 周りで地に伏している人々など、さも知らぬとばかりに硬い面持ちで見渡していく。


「みなの者、おはようなのじゃ」


 童女は呆けた笑みを戦慄する人々へ振りまいていく。

 無垢な笑みは明かりを灯さず、真逆な冷たさで彼女を囲う人々を震撼させる。


 既に彼らは満身創痍まんしんそうい

 武具は砕け、身体から流れる血は止まらず、それでも心は折れぬと立っている。

 英雄と評すべき彼らの瞳にあったはずの輝きは、たった一言で闇の底へと引きずり込まれる。


「ん? どうしたのじゃ? 紅音ちゃんの顔になに、なにかかあぁー……んんっ」


 リボンで結われた赤き影を落とす白髪が、尻尾のように揺らされる。

 彼女の無邪気な振る舞いは、童女と変わらないが故に恐怖をもたらす。

 随所に巻かれた包帯も、痛々しさ以上に得体のしれない狂気がにじむ。


「紅音ちゃんはつよつよじゃからな。こういう事もできるのじゃー」


 刹那に幾つモノ椿の花がズレ落ちる。

 

 現れたのは、宙に浮かぶ鈍く光る片刃の双剣。

 装飾豊かな二振りの剣は、童女の指先から伸びた赤と青の糸で繋がり優雅に踊る。

 さながら鍵盤で奏でる糸繰人形マリオネット


 ――薙いで落として、赤い静謐せいひつを広げていく。


「ゆらゆらゆらいでゆれにゆれ」


 スカートの両裾をつまみ、少し後ろへ右足をずらして頭を軽く下げる。

 挨拶カーテシーから始まる、笑う童女の恐怖劇。

 月明かりの野外舞台で紡がれる独奏アリアは、悲痛と嘆きを喰らっていく。


 踊る双剣を一つと結び、ケタケタと嘲笑う怪奇のはさみへと変貌へんぼうさせる。

 悪しきつぼみを切り落とすため、剪定せんていの刃は赤き花々を摘んでいく。


「赤き月夜へ、真紅の音色を捧げましょう」


 踊る刃をくぐり避け、隙をついては彼らは決死の一撃を放っていく。

 身を刻む恐怖を乗り越えて、剣や弓矢が童女へ迫る。


 だけど小さな小さな希望は、小さな絶望でへし折られる。

 月明かりで出来た影が、主の命を守ると風を斬る。


 踊る童女の傍で振られるは、影で造られた一振りの刀。

 飛翔する矢を払い落とし、近付く敵は一撃において押し切られる。

 近づくことは困難で、すくみ後ずさった者から剪定せんていの刃に胴との別れを告げさせられる。


「憧憬たる血濡れた夫人を思い描き、くあるべきと謡います」


 狂気に歪み、輝きを増す赤い月。

 同調するように糸を操る童女も、光を無くした両の瞳を妖しく動かし獲物を探す。

 祝詞のりとを口ずさむたびに可愛く覗く犬歯は、獲物を定める捕食者の鋭牙えいが


「一人二人と惨禍さんか詩編しへんが、忌むべき日向ひなた闇夜やみよへ変える」


 童女はまだ見ぬ先を見つめ、まともな武具さえ持てぬ虚弱な両手で軽やかに糸を操っていく。


 空で微笑む月に憧れ、滴る血潮に魅せられて。

 いつか貴女と代わると、日を歩く者を一人また一人と、真っ暗な闇へと葬る。


くらき血吸いに従属じゅうぞくを」


 もはや残る者は、数えるほどしか存在しない。

 彼らが最期に見たモノは、影から取り出された生者を貪る狂騒の獣。

 繋がる糸を何度も何度も引き伸ばし、唸り火花を散らす鋼鉄の刃を手にした童女は、獣に振り回されながらも確実に獲物を喰らっていく。


 回転する鋼鉄の歯牙は、肉を裂いては骨を砕いて辺りへ鮮血を撒いていく。


 ――唸りと呻きが途切れ、最後に残されたのは惚けた童女と静謐せいひつのみ。


「……あれ? もう終わりかの」


 誰も答えないし、誰もいない。

 有るのは沈黙と惨劇さんげきと自分だけ。


 剣を取り恐怖を乗り越え、果敢に蛮勇を示す勇士は血に飢えた獣に飲まれてしまった。


「……ぅ……ぁっ」

「おお! 一人残っているの」


 不幸にも、折れた剣を杖に立ち上がる者がいた。

 纏う鎧はもはや意味をなさず、瞳に希望は存在しない。

 体に力を入れるだけで精一杯で、抱く意思は闘志ではなく逃走のみ。


 意外とばかりに立ち上がった者へ興味を示した童女は、獣の尻尾とばかりに長い白髪を楽しげに揺らす。


「今、ラクにしてあげるからの」


 童女の影が伸び、敗者の影と混ざり合う。

 膨れ上がる影から生まれるのは、不気味な黒い木製の椅子。

 不可解にも千切れたロープが取り付けられた椅子へ、敗者は力無く座り込んでしまう。


 足に力は入らず、天国と間違うばかりの安心感に駆られる敗者は、僅かにもたらされた救済に光を取り戻す。

 一生でこれ程までの幸福を感じたことは無く、回る思考は一掴みの希望へと手を伸ばし始める。


「降参だ。頼む、見逃してくれとは言わない。せめて……せめて、生きることを許してくれ」

「ズルいのぉ。わしはそう言われるのに弱いのじゃ」


 その場に体育座りをして、完全に聞く体勢へ変わる童女を見て、敗者は安堵すると同時に必死に言葉を探していく。


 どうすれば生きられる?

 どうすれば、目の前の少女から逃れ安息を手にすることができる?

 いっそのこと眷属となるのも手だが、それは本当に自分の幸福へと繋がるのだろうか。


「オレはとにかく生きたい。その為になら君の眷属に……いや餌になっても良い。剣にも覚えはあるから、護衛とかでも良い。頼む!」

「ほえー」


 敗者の剣幕に対して肝心の童女は、容姿相応に目を丸くし口を開けたまま惚けた顔をしていた。

 どう見ても深い考えを巡らせている様子はなく、ただただ聞いているだけだった。


「難しいことは分からんのじゃが、つまりはわしはどうすれば良いのじゃ?」

「どうすればって……」


 大きく首をかしげる童女に、敗者は動揺の色を隠せなかった。


 圧倒的優位の者が、死刑宣告の直前に無様な懇願をする者へ、どうすれば良い等と問いかける事に理解の範囲が超えざるおえなかった。


「逃げたいのなら、好きにすれば良いのじゃ」

「あ、ああ……分かった」


 椅子からどうにか立ち上がり、足を引きずりながらその場を後にする敗者。

 童女はそれを手を振り見届けるだけで、それ以上の事はしなかった。


 赤い足跡を残しながら進んでいく敗者は、一歩一歩と歩みを緩めて……


「また、一人になってしまったの」


 遠のく足音は、童女の耳から消え去った。

 月を見上げて呟く彼女は、恋い焦がれるように右手を伸ばす。

 指先すら届くはずのない月に向けて、赤い糸と結ぶように――

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紅血月姫 薪原カナユキ @makihara

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