第三章 晴れのち曇り

鮮やかな色が敷き詰まったフラワーキャンドルに、ゆっくりと、小さな可愛い火が灯った。部屋の電気が消えて、パパとママが拍手でリズムをとりながら歌を歌った。


 ハッピーバースディ、トゥユー

 ハッピーバースディ、トゥユー


 最後にわたしの名前が呼ばれて、ママが合図をした。息を大きく吸い込んで、掛け声と共にわたしはキャンドルに顔を近づけ、

 ふうぅぅぅ……。

 思いっきり息を吹きかけた。

 火が消えて、部屋の電気が明るくなった。

「おめでとう、あませ」

 フラワーキャンドルの周りには、大粒の苺と生クリームがたっぷり乗っかったホールケーキや、たくさんの手料理がいくつも置いてあった。

 今日はわたしの誕生日だ。

 パパも早めに仕事を終えて、久しぶりに家族みんなで食卓を囲んだ。

「ありがとう、ママ。パパ。でも、キャンドルの火をすぐ消しちゃうのは、なんだかもったいない」

「さすがに、じゅうごほんもローソクを乗せちゃったら、せっかくのママ特製のケーキが、ぶかっこうになってしまうわ」

「それはやだぁ」

「でしょう?」

 ママが得意気に返事をしながら、ケーキのうえにカバーそっと乗せた。

「えぇー、いまたべたい」

「だーめぇ。さきにごはんよ」

「たべたい、たべたい」

 わたしは駄々をこねてわざと足をバタバタさせた。「もう、子どもじゃないのに」というママの呆れた声が聞こえてきて、そしたら、突然鳴り響いた携帯電話の着信音で一瞬にしてかき消されてしまった。

 妙な沈黙が数秒ほどあって、それから、ママが少し眉をひそめながらケーキカバーをとった。

「……もぅ、じゃあすこしだけね。ちゃんとごはんも、しっかりたべるのよ」

「はぁーい」

 誕生日の夜は、好物の生クリームが一番先に、わたしの身体の中へと入っていった。


       ✱

 

 ママがおかしくなったのは、ちょうど、わたしが高校二年生になってからすぐだった。

 得意だった料理も徐々にしなくなって、土日の夜は特に「そとで食べてきなさい」が口癖になった。

 あんなに穏やかだった目も不自然に釣り上がって、笑わなくなった。

 それに加え、日中、不気味な独り言を言うことも多くなっていた。やせ細った身体がなおさら目立ち、疲れきっていた。

 単純に意欲がなくなって食事もまともにしなかったから、体重もどんどんおちて、顔色が悪くなり、やせ細ってしまったのかもしれない。

 だけど、ある夜。

 わたしとママがそれぞれの寝室についたあとに、ママがいきなり唸って飛び起き、深夜、家の近所をぐるぐると徘徊していたことがあった。

 わたしはママが玄関を飛び出したしときに跡をつけていたから、その日は特に警察沙汰にはならなかったけれど、そういうことが長く続くと、わたしまで不眠になってしまい、朝起きれず学校に遅刻してしまうことが多々あった。

 学校の先生からは、無理せずに授業を受けなさい、と言われていたが、ただでさえママのことで精一杯なのに、自分のことなんてもうどうでもいいと、日々の勉学だけでなく、既に進路も諦めていた。

 その結果、唯一の友達であったサヤカちゃんとも交わす言葉が減り、クラスのみんなとも勉学が追いつかなくなっていた。

 ママはそんなこともつゆ知らず、「あのひとは、どこなの……」と、父のことばかりであった。

 そして、一番、酷かったのが、わたしが高校から帰宅したや否や、注射器を片手に「あませ、うで」と言って、無理やり引き寄せられ、そのよく分からない注射器で左腕の血液を取られたことだ。

 今でもよく覚えている。

 ママは看護師じゃないし、なにより平常心が乱れていたから、わたしの健康的な腕に複数箇所、むやみに何度も針を刺した。それがだんだん広がって、色もまばらに濃くなってきて、痛みを感じる度に、赤い斑点ができていった。

 嫌だ、やめて、離して。

 そんな言葉が頭の中で渦巻いたけれど、ほんの少しだけ、片隅に、「ママは悪くない、悪いのはかぞくを捨てたパパだ。だから、仕方がないんだ」という同情が、僅かだけど残っていた。

 当時は本当に意味が分からなかった(今も理解は出来ない)が、おそらく、捨てられた夫に対して執着心が芽生え、でも自分のところには帰ってこないから、せめて血液だけでも、夫との間に産まれた子の血液だけでも欲しいと、そう思ったのであろう。

 注射器いっぱいいっぱいに取ったわたしの鮮やかな血液を、目の前で、自分の腕にそのまま注入したのだ。

 怖い。

 怖い。

 怖い。

 すごく怖い。

 わたしの身体から、徐々に生命(けつえき)が吸い取られていく。

 ママが、化け物になっていく。

 でも………………抵抗はしなかった。

 抵抗をしないことで、「痛い。だけど、ずっとママの味方だから」とでも言うように、じっと耐えて、わたしなりにママを慰めていたのだ。

 化け物になっても、ママはママだった。

(ケーキ、やけたわよ)

(おめでとう、あませ)

(おりこうね)

 けれど、それを知ったパパは呆れてさらに遠ざかっていった。もうこれ以上関わりたくないと、住処まで奪ったのだ。

 取り返しがつかなくなってしまったことに気づいたママは、落城されたかように失望した。

 昔のママは、消えてしまった。ひとりの男に執着心を向けた結果、何もかもがなくなったのだ。

 わたしはその様子を見兼ねて、後ろ髪を引かれるように出奔した。

 ごめん、ママ。

 ほんとうに、ごめん。

 わたしの、たったひとりの、存在。


 僅かな同情と捨てきれない罪悪感を抱えて、すがりつくようにやってきたのは、

「え、あしたから?」

「はい、あしたから働きたいです」

 古い建物だった。

「うむぅ。うちは、だいじょうぶだけれど……」

 小さな部屋に誘導されて、〝しゃちょう〟と呼ばれる男が、とりあえず書かされたアンケート用紙を眺めながら言った。

「大学は?」

「やめました」

「親は?」

「いません」

「家は?」

「ありません」

 左腕を隠しながら、かなり早いラリーで一問一答を続けた。

「ほんとうに、あしたからで、だいじょうぶ?」

「はい、だいじょうぶです」

「しばらく、うちの寮をつかうんだよね?」

「はい。そうして頂ければ、ありがたいです」

 男が軽く足を組んで眉間にシワを寄せていると、奥のほうからひとりの女性が部屋の中に入ってきて、「あら、すごく、かわいい子じゃない」と言いながらわたしの目の前にお茶を置いた。

 わたしは小さくお礼を言って、軽く会釈をした。

 女性はほっそりしていて、シワが多少目立つものの、絹のような長い黒髪が印象的だ。

 それに、駄弁が多く少し達者。

 お茶を置いたあとに続けてまた何かを言いかけたのだが、男が察して「今はちょっと」というよな視線を送り、見事に阻止されていた。

 女性は舌をぺろっとだして恥ずかしそうにわたしを見ると、「また、あとでね」と言うように、細い手を小さく振って部屋から出ていった。

 気を取り直して、男が、

「まあ、今うちで働いてる子たちも、いろいろあってここに来たから、くわしくは聞かないけれど……」

 と言いながら、わたしの左腕をちらっと見て足を組み替えた。

 わたしは一瞬ためらって、意を決し、正直に話した。

「あの、これは、決してそういうものではなくて、マ……母が、わたしの母が、やってしまった傷跡なんです。なにも悪くないのに、父に逃げられてしまったから、それで……」

「わかった、わかった。うん、そうだね、わるかったよ……ごめんね」

「ぜんぶ聞かなくていいんですか?」

「うん、もうだいじょうぶだ。あれとは少しちがうのは、ぼくでもらわかるよ。ただ、ちょっと気になっただけだ。ほら、さいきんは、けしょうとかでも隠せるからさ、しんぱいないよ」

 テーブルのすぐ横に置いてあるダンボールの中から、ペットボトルの水を取り出してひとくち飲んだ。

 妙な間が生まれて、一瞬だけしんとなった。

 男がもうひとくち飲んで、ペットボトルをテーブルの上に置くと、

「よし、あしたから働こう」

 力強く言って、優しく微笑んだ。

「ありがとうございます……お、おせわになります」

「うん、よろしく。みんないいひとだから、しんぱいしないで。もし、何かあったら、だれでもいい、そうだんしてくれ」

「はい、わかりました」

「えーっと、じゃあ……」

 足を組んだまま、緩やかに指を織り込んで額にもっていき、なんだかポーズが『考える人』みたいになった。

 しばらくして――。

 何かを思いついたらしい。突然、

「〝うみ〟だ。うみちゃん。きみにぴったりな、なまえだ」

「はぁ」

「あれ、気にいらなかったかい?」

「あーいえ。なぜ、うみなのかと……」

「あぁ、なるほど。うーん……なんか、夏ってイメージだから、夏といえば海でしょ? だから、うみ。うみちゃん」

 そんなふうに言われたのは、たぶん初めてだった。だからなのか、余計に、

「それ、わたしすきです」

 愛着が沸いた。

「よし、じゃあ、決まりだ。向井 雨晴。今からきみは、うみだ。うみ、二十一歳だ」

 そう言って、社長が、引き出しの中からカードいちまい取り出し、濃いペンで、〝うみ〟と書いた。


       ✱


 不安だった新しい環境も慣れたらみんな同じだった。

 起床をして身だしなみを整え古い建物に籠城し、ドレスを身につけたあとひたすら男と寝た。

 寝て、寝て、寝て、飽きて嫌になっても、それは勘違いであると自分に言い聞かせ続けた。

「うみちゃん、おつかれさま。きょうも、ありがとね」

 そして気づけば月日はあっという間に経ち、うみとして過ごしている時間のほうが長くなっていた。

「はい、おつかれさまです」

「きょうは、社長がおくってくれるらしいから、さきに乗ってていいよ」

「わかりましたー」

 荷物をスタッフに渡して、言われた通りさきに車に乗って待つことにした。

 普段なら寮に直帰するけれど、さっき急に甘いものが食べたくなって、買わずにはいられなくなり、寮付近のコンビニで降ろしてもらうことにした。

 休日によく利用をする。わりと小さなコンビニだ。寮からの距離は歩いても四、五分程度の場所にある。

 ガチャ……バタンッ――。

「うみちゃん、おつかれ。かえろうか」

 社長が車に乗り込んだ。

 勢いよくドアを閉めて、その流れでシートベルトも一緒に着用した。

「えーっと、コンビニだっけ?」

「はい、コンビニまでおねがいします」

「おっけぇい」

 やたら上機嫌な社長は、ハンドルをきって大通りに出た。

 寮はここからだとたぶん車で十五分くらいのところだ。かなり狭い道に入り込んで、何回か角を曲がっていく。最後に小さな神社を右に曲がり、ずっと進んでいったら、再び大通りに出て駅が見える。寮は、その向い側にあった。

「ねぇ……」

 小道に入ると、社長が口を開いた。

「はい、なんでしょうか」

「うみちゃんはさぁ、けっこんがんぼうとかって、ある?」

「けっこんかぁ……かんがえたことないです。でも、わたし、もうにじゅうよんさいだから、してても、ぜんぜんおかしくないですよね」

「あぁ、そうかぁ……うみちゃん、そんなとしだったんだね」

「はい」

「それじゃあ、もう同級生とかはみんなしてるよねぇ」

「たぶん、してますね。けっこんがんぼうは、しょうじき、分からないけれど…………こどもなら、ほしいかも」

「こども?」

「はい。こどもがほしいです」

「そっかぁ、こどもはいいよね。ぼく、一人っ子だから、きょうだいも、いたほうが、さみしくないかもね」

「ほんと、そうですね。わたしも、きょうだいはいないから、いたら、どんな子だったのかなぁって、ちいさいころに、よく妄想していました」

「はは、やっぱりそうだよねぇ」

 車が大きく傾いて、大通りに出た。夜だけど、ライトがついた看板やお店の中から漏れて出た光りがたくさん溢れて、明るく賑やかにな街並みが続いた。

 車内が少し静かになった。

 わたしは窓の外を眺めたまま、

「あ、でも。わたし、ふつうじゃないから、ちゃんと育てられないかも。すきなひとのこどもだったら、なおさら。ひょっとしたら、だれかみたいに、あいじょうを吸いとっちゃったりして、ふふふ」

 一瞬間が空いて、妙な時間差で返事が返ってきた。

「……いや、ぜんぜんわらえないよ」

「あら、そうですか?」

 わたしは再び車内に視線を戻し、ほうづえをついた。

 社長はミラー越しに困ったような表情をして黙った。

 しばらくして車は駅に到着し、コンビニも見えた。

「じゃあ、またらいしゅうね。うみちゃん」

「はい、ありがとうございました。社長」

 わたしが車から降りると、「気をつけて」というように右手をひょいっとあげて、すぐに動き、もと来た道を走っていった。


 コンビニの中は、意外にもひとが多かった。

 若いカップルや、おそらく仕事帰りであろう中年男性。コピー機を占領する強気なマダム。それから、まだ酔いが足りないのか、ふらふらしながら缶チューハイを手に取る二十代たちの集まりが居た。

 あぁ、そっかぁ。今日は金曜日か。

 そんなことを思いながら、わたしは真っ先にスイーツコーナーへと向かった。

 並んでいたのは、プリン、クレープ、モンブラン、タルト……。

 それと。

 生クリームが乗っかったショートケーキが置いてあった。

 わたしはショートケーキを二つ手に取って籠の中に入れた。あとは特に買う予定が無かったけれど、一応店内を一周した。全く用事のない雑誌コーナーまで足を運んだけれど、やっぱり籠の中身は変わらなかった。

 レジは意外と混んでいなかったので、スムーズに会計を済ませることが出来た。コンビニを出て、鞄の中から中途半端に飲み干したペットボトルを出した。今日のお昼に買ったミルクティーが、あと数センチくらい残っていたけれど、

「ま、いいか」

 さっきもらったレシートと一緒に、入口横のゴミ箱の中に捨てた。

 と、そのとき。

 なんだか嫌な匂いがしてきて、鼻を刺激した。やけにつんとする煙草の臭いだ。

 辺りを見回すと、ちょうど、灰皿の前で煙草をふかしながら、気だるげに座り込む三十代くらいの男が目に入った。無地のティーシャツに灰色のパーカズボン。ラインが一本だけ入ったシンプルなスニーカー。たぶん、このひとだ。間違いない。

 男が一服すると、煙は一気に上空へと舞った。雲みたいに広がって霧をつくり、そして、煙草の先端には綺麗な一筋の線が描かれていった。

 男は、そこまで上等ではない灰皿なのに、その場に腰をかけて、なぜか憩いの場みたいにそこに居た。わたしが見ている間にも、お客さんが何人かコンビニを出入りしていたけれど、全く気にしていないようだ。ただ消えゆく煙草の煙を、気だるげに眺めていた。

 

 あぁ、やたら――。


 男が胸ポケットから面倒くさそうにライターを取り出して、二本目の煙草に素早く火をつけた。と同時に、嫌な臭いを放つ霧をつくった。その瞬間、脳内に焼き付いた。ライターの炎で照らされる、男の横顔。黒目が目立つ大きな瞳と、控えめな小鼻。

 ときおり瞼を重くして、遠くを見つめた。吸い込まれるように指先が口元へ飛んでいき、そのまま動かなくなった。かと思ったら、しばらくして、煙草の煙に押されながら、指先が徐々に唇から離れていった。

 一体、何を見ているのだろうか。

 どんなことを考えているのだろうか。

 わたしには分からない。

 まるで煙草を持つ右手だけが生命であるかのような、自分が吐き出した薄い煙との、一体感。

 気だるげな横顔、瞳。あぁ、やたら。


 やたら……艶羨する――。


 わたしは男を見つめた。

 でも何でだろう。なぜだか馴染みのある顔つきだ。懐かしいというか、なんというか。会ったことがあるような。昔、どこかで見た、よう、な……。


(今週一週間の天気予報です)


(雨マークが出ています)


(お出かけの際は、傘を持ちましょう)


 あ…………。

 そうだ、思い出した。

「ひろせ、ゆうとだ!」

 わたしは思わず声に出してしまった。

 目の前の男は、広瀬 悠斗。少し前まで夕方の報道番組に毎日出演をしていた若い気象キャスターだ。そういえば幼い頃、広瀬さんの天気予報を見たあと、次の日の衣服のママと一緒に準備していたんだ。いつしかテレビで見かけなくなってから自然と忘れていたけれど、きっとそうだ。

 だけど……。

 目の前にいる広瀬さんは、少し雰囲気が違う。前はもっと、透き通った声が特徴的で、軽やかな表情が眩しくて、なんというか、こう、爽やかな印象だった。

 それにだ。突然、見知らぬひとから自分の名前を呼び捨て(悪気はない)されて、困った顔をするのかと思っていたら、首だけを若干こちらに向けて、表情なんて一切変わらず、

「あぁ……そうだ」

 とだけ言って生返事をするだけだった。

 月日が経ったということだろか。それとも、これが広瀬 悠斗なのだろうか。わたしは広瀬さんの近くに寄って、声をかけた。

「あ、あの……おもわず、呼び捨てをしてしまって、すみません。それから、あの、えっとぅ……わたし、ちいさいころから、みてました。ひろせさん、すきでした」

 でした? 自分で発した直後に、やっぱり違った、と思い、

「すきです……い、いまも、ずっとおうえんしています」

 言い直した。

 広瀬さんは黙って、黒目だけを動かした。目線のさきは、わたしの手元だった。しばらく黙り込んだあとに華麗な瞬きをいっかいだけした。瞳が微かに開いて、少しの間、固まった。

 腕、見られてる……?

 わたしは咄嗟に腕を隠し、コンビニの袋ごとうしろへやった。

 広瀬さんは再び煙草を口にして、煙をふかし、「うむ」と小さく頷いた。綺麗だった。思わず見とれていると、さっきの若者たちがコンビニから出てきて、賑やかになった。わたしはそのままくるりと背を向けて、左右に身体を揺らしながら近くの寮へと戻った。


       ✱


 次の日。起きたらお昼の二時だった。昨日うまく寝付けなかったせいか、普段なら目覚めていてもおかしくない時間をとっくに過ぎていた。

 布団を剥いで、ひとつあくびをする。まあ、休みの日に早く起きれなかったからといって、なにかをする予定なんてないし、損をした気持ちにはならない。

「うみ、おはよ。やっとおきたねぇ。いまさぁ、社長が差し入れくれたんだ。のみものなんだけど、なにがいる?」

 寝起き早々、話しかけてきたのは、今同じ寮に住んでいる、れいさんという女の子だ。彼女は、わたしがここに住み始めて、少ししてからやってきた。初めて会ったときのことを、今でも覚えている。わたしはその日休日で、一度起床をしたけれどまだ眠たくて、二度寝をしようかベッドに横たわったとき、ノックと同時に部屋のドアが開いて、ちょうど今みたいに突然話しかけてきたのだ。「今日から隣の部屋に」と、引越しの挨拶みたいに律儀に挨拶をしてくれた。

 見た目が小柄でわりと華奢だったから、わたしは勝手に、れいちゃんと呼んでいた。だけど、前にいたお店とか、学生時代の話とかをするうちに、たぶんわたしより年上だ、と気づいた。それでいつの間にか、れいさんと呼ぶようになった。その一部始終を、本人は全く気づいていないようだが……。

「おはよぅ、れいさぁん……わたし、りんごジュースがいい」

「あーうみ、ごめん。りんごは、さっきわたしがのんじゃった。そういえば、うみはりんご好きだったね。ほかは? あ、オレンジならあるよ」

 損をした気持ちにはならないが、なんとなく、得をするのは難しいようだ。目を擦り、もうひとつあくびをした。むくむくと起きあがって部屋からでると、

「じゃあ……オレンジにする」

「はーい。うみのぶん、よけておくね」

「うん、ありがとう」

 わたしはそのまま洗面台に向かった。鏡横の小物置きからバンダナを取って髪をまとめた。目を瞑ったまま歯を磨いて、そのあと洗顔をした。棚から自分の名前が書いたタオルを取り出し、軽く水滴を拭き取った。

 部屋まで取りに行けばいいのに、面倒だから、共用のドライヤーとヘアアイロンで寝癖を整えた。

「ねぇ、うみぃ。しってる?」

「んー、なにがぁ?」

 れいさんは、相手がどんな状況であっても唐突に話しかけてくる。

「あした、大雨だってぇ。わたし、ひさびさに出掛けようかとおもってたのに」

「えぇーほんとにぃ? それ、さいあくじゃん」

「さいあくだよぅ」

 わたしは部屋に戻って衣服を着替え、財布を手に取った。

「でも、まあ……雨なら仕方ないね」

「そうだけどさぁ……って、あれ、今からどっか行くの?」

「うん。ちょっと、コンビニまで。おなか空いちゃったから。れいさん、なにか欲しいものある?」

「んー、ない…………あ、アイスがたべたい」

「アイスね、わかった」

「おねがいねー」

 下駄箱開いて、履きやすいサンダルを見つけた。散乱した迷子のミュールが、いち、にぃ、さん…………八足も出しっぱなしになっていて、玄関は、わたしとれいさんの靴で埋め尽くされていた。

 仕事のひとつでもある靴並べ。いたって単純。普段は無意識にやっているはず。それなのに。私生活になると、わざわざ意識をしなければ靴一足も揃えられないのだ。

「そうじ、しなきゃだな」

 隙間にサンダルを置いて足に引っ掛け、扉を押し開けた。


 コンビニの前まで行くと、やっぱりあのひとがいた。

「あぁ……まただ」

 気だるげに煙草をふかす広瀬さんが、昨日と同じ場所に腰を降ろして座り込んでいた。昨日と同じような服を着て、灰の匂いと共に遠くを見つめていた。

 声をかけようか、かけまいか。少し迷って、一歩前へ進んだ。入口に近づき、気付くか気付かないかくらいの軽い会釈をして、通り過ぎようと、した、その瞬間、

「ねぇ、きみ」

 さっきまで遠くを眺めていたはずの広瀬さんが、声を出した。綺麗に響く、かすれた柔らかな声。宙を舞って、わたしの耳元に届き、足をとめた。

「は、はい」

「これ……」

 風でなびいた横髪を耳にかけながら、顔をゆっくりとあげて振り向いた。すると、澄み切った青い空を背景にして、煙草をくわえたままの広瀬さんが、こちらを見ながら何かを投げた。

「わぁ!」

 鈍い身体が邪魔をして危うく落ちそうになった。でも、ちゃんと冷たい。反射的に掴んだ両手の中には、さっき飲み損ねたりんごジュースが入っていた。

「えっと……なんですか、これ」

 広瀬さんが煙草を外した。

「さっき、クジ引きであたった。あげる」

「い、いらないの?」

「ぼく甘いの、苦手だから」

「はぁ」

「甘いの、すきみたいだから……」

 だるそうにしながら、やっと立ち上がった。片手をポケットに入れたまま、もう片方の手で小さくなった煙草を灰皿の上に一気に押し付けた。不安定な灰皿は小刻みに揺れて、金具がぶつかり合う音が響いた。

「あ、あのぅ……」

「なに?」

「ありが、とう」

「……うん」

 それから――。

「わたし、あませ。むかいあませ」

 名前を告げた。本当はずっと言いたかったけれど、ずっと胸にしまっていた、誰でもいいから呼んで欲しかったわたしの名前を、広瀬 悠斗に言った。言ってしまった。なぜかは分からない。なんとなく、わたしはこの男に嘱望したのだ。

 けれども、どうやらそれは間違いだったようだ。わたしは、この男を知らない。画面から聞こえる透き通った声は偽物だ。知っているのは、煙草の匂いと、気だるげな表情。

 それから………………。


(今週一週間の天気予報です)


(雨マークが出ています)


(お出かけの際は、傘を持ちましょう)


 微かに笑みをつくり、

 「じゃあ、また。あませ」

 と言って、わたしの執着に触れたということだけだ。


       ✱


 頼まれていたアイスと昼食を買って、急いで寮へ戻った。ドアを開けて散乱したヒールを棚に並べて、居間へ向かう途中、珍しくれいさんがキッチンにで調理をしていることに気づいた。

「おかえりぃ、うみ。そういや、きのう買ってたんだ。サイコロステーキ。いっしょに食べようよ」

 石鹸で手を洗いながら、絹のような黒髪をお団子にしたれいさんが、エクボをつくって笑った。

「うん……たべる!」

 途端に、悲しいのか、嬉しいのか、はたまたどちらでもないのか、よく分からない涙が溢れ出てきた。ふわりと、柑橘の香りが舞った気がした。


       



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