第二章 太陽と、雨
四月二十一日
罪への意識と好奇心は、よく分からない自信へと変化し、わたしを駄目にした。古びた暖簾を、人目気にせずにひとりでくぐり抜けることでさえも、徐々に慣れてきてしまったのだ。今日なんて、いつもは言わないおねだりまで言ってしまった。きっかけは、彼の、広瀬さんの、無責任過ぎる言葉だった。というのも、わたしの左腕には傷跡があり、赤い斑点が目立っている。詳しくは言えないが、幼少期に出来た傷で、こうして日記に記すことでさえも非常に恐ろしく感じてしまう、いわば、呪いのようなものだ。わたしはその呪いに対して、恐怖心だけではなく、汚わらしさを強く感じ、醜悪なものであると思い込んでいた。しかしだ。それを知ってか知らないか、わたしを茶化すように、左腕の赤い斑点を眺めては、「きれいだ。すごく、きれい」などと言うのだ。それでムキになって、わたしは、「じゃあ、汚してほしい。もっと汚して」と、赤い斑点が隠れるくらいの接吻印をねだったのだ。ほんの少しの軽はずみではあったのだが、広瀬さんは優しいから、すぐに受け入れてくれた。「きみの左腕は、ぼくのものだ」と、言わんばかりに、何度も、何度も、激しく接吻印をつけてくれた。ときおり、加減を忘れて強く吸い付けられ、少しだけ痛かったりするけれど、単純に、わたしはそれが嬉しかった。
ところで、先程は〝慣れてしまった〟などと言ったが、密会の手順に慣れてしまっただけであって、決して、広瀬さんに飽きた訳では無い。むしろ、逆なのだ。密会をすることがあまりにも日常化してしてくると、広瀬さんが生活の一部となり、彼が居ない日常が当たり前じゃなくなって、何をするにしても気力が失われていくのだ。古びた暖簾をくぐり抜けて、彼以外の物体が目に入り込んだ瞬間から、わたしは絶望する。過剰に表現をしているわけではない、本当だ。ただ来た道を憮然としつつ歩き、他のものには関心すら無くて、街や、自然や、ひとたちが、単に視界に映るだけになった。これは自分でも、誠に厄介だなぁと、改めて思う。とはいえ、彼は、広瀬 悠斗だ。わたしが住む地域では、ほとんどのひとが知っているのだ。だからと言ってではないが、危ない吊り橋を、表情ひとつ変えずに平気で渡ろうとする度胸も、彼らしくて好きだった。そういえば、一番最初もそうだった。もしかしたら、取り返しのつかないことだって、あるかもしれないのに、お互いやめようとは言わなかった。少なくとも、わたしは言いたくなかったのだ。
おっと、もう、こんな時間になってしまった。夜の一時だ。明日は朝からアルバイトの面接があるというのに……。まあ、とりあえず、今日はここまでとしよう。
五月三日
今日で二十四歳になったが、いまいち実感が湧かない。アルバイトの面接で一応合格をもらったが、この歳になって、まともな職業に就いたことがないと伝えると、予想以上に驚かれた。そりゃそうだ。軽蔑をされてもおかしくない。わたしは決められたレールを歩いていたのに、いつからか、普通とはかけ離れた道をさ迷うことになったのだ。あれもこれも、みんな、この傷跡のせいでだ。この赤い斑点のせいで、わたしは、わたしは……。いや、元はと言えば、あいつがいけないのだ。あいつが正しい人間でいれば、違ったのだ。正しい、人間で、いれば……。あぁ、待てよ。それも違う気がする。人のせいにするのは良くないな。まあ、そんなことはどうでもいいのだ。なんといっても、わたしには彼がいる。広瀬 悠斗がいるのだ。途中からめちゃくちゃな道を歩いてきたけれど、でも、めちゃくちゃな道で良かったと、今は心からそう思うのだ。
そして、今日は昼間から。彼を独り占めにすることができたのだ。くっきりとした大きな瞳やシュッとした小鼻に、だるそうに返事をする横顔と、「あませは、きれいだ」といいながら黒く汚していくあつい唾液。一瞬だけ、ぜんぶ、わたしのものになった。それから、えーっと……。他にもたくさん書きたいことがあるのだけれど、なんだか……急に恥ずかしくなった。もし、誰かがこの日記を読んでしまったのなら、それは、ほんとうに、一生立ち直れないと思う。まあ、一生は言い過ぎかもしれないけれど……。あ、そうだ。今思い出した。広瀬さんの小さな変化。いつもすごいけれど、今日は特に煙草の数が多かった。まず、部屋に入ってすぐ煙草を一本灰にして、続けざまに二本吸った。それから、部屋を出ていく前にも数本。わたしが「タバコは、へいき」と言ったら、「ぼくはヘビースモーカーだからね、つい家の中でも……それで、むすめにも、よく怒らるんだ」とだるそうに言った。別にわたしも好きではない。だから、「広瀬さんの匂いだから。わたしはこのタバコの匂いが、すきなのよ」と言った。そしたら、煙をふかしながら、ちょっと照れていた。わたしはその一瞬で、湧き上がった鬱憤を自分の中で丸く収めることにした。
五月十五日
男は何を考えているのかとんと分からない。と、常々思うが、まさに今日は、そんな出来事が多かった。わたしがベッド上に這いつくばったとき。鏡越しに彼を見つめると、薄く微笑んだ。それが、なんとなく、どこか寂しげな表情だった。かと思えば、だ。ことを終えると、気だるげに煙草をふかして遠くを眺め、視線に気づくと、わたしの頬を優しく撫でた。普段と何ら様子が変わらないようで、何かが少し違った。とはいえ、灰にした煙草の数はこの前と同じくらいだった。貰っても良いかと聞くと、不思議そうに目を丸くして、それから、何も聞かずに、「灰なら、大丈夫か」と言ってわたしにくれた。もっと変だったのは、広瀬さんが普段言わないような言葉を、躊躇なくわたしに囁いたことだ。「あませ。みみだ、みみ」と言って自分の耳を舐めるようにと指示をしたり、「こっちも、だ」と、臀部の間に誘導をしたり、とにかく、子どもみたいになった。何かを終わらそうとしているような、そんな気もした。
もっとも、未来における約束ほど無意味なものはない。と、思っていた。むろん、今でもそう思っている。しかし。それが、未来ではなくて、今現在に必要であるとしたならば、話は変わってくる。というのも、こんなこと言ってはいるが、わたしも決して、無意味が嫌いなのではない。無意味であること自体に、意味が存在するということを、理解して欲しいのだ。たぶんではあるが、きっと、それを広瀬さんも分かっていた。
彼が立った。
わたしは妙な胸騒ぎを覚え、
「ひろせ、さん」と言って身体で引き止めた。
「どうした、あませ」
彼が驚いた。
何か言わなくてはと、焦って、
「わすれないでね」
なぜか不意に、口からこぼれ落ちた。
彼は、
「はは、わすれるわけないよ」と言って、微笑み、頬ずりをした。
七月六日
梅雨寒が解消されたかと思うと、今度は豪雨だった。この時期の空は、一向に落ち着く気配がない。激しい雨と、風と、油断していた頃に襲ってくる、夏の真骨頂ともいえる蒸し暑さが、それぞれ容赦なく交互にやってきた。夏は厄介だ。嵐だ。元々体力が備わっている訳では無いのに、古い傷跡のおかげで、なおのこと体力を奪われてしまうのだ。階段を登るのだって、ひと苦労。小学生の頃は二段、三段と飛ばして、小さな身体を軽々しく運んでいたけれど、今は、もう無理だ。すぐに疲れてしまう。そしてなにより、嵐の間は籠城しなくてはならない。当たり前ではあるが、籠城は、そんなに楽しいものではないのだ。もっとも、わたしには〝宅〟というものが存在しない。あったとすれば、それは、遠い記憶の中だけだ。今、現に、帰れる場所はというと、都市部から若干離れた安直なネット喫茶か、ドレスと古い建物だけであった。わたしはここ二、三年、その二択だけを〝宅〟として歩いてき続けたのだ。
話は少し変わるが、そういや、先日、最寄りの駅で岡さんとばったり会った。お互い見慣れない衣服を身に着けていたから、最初は分からなかったけれど、先に岡さんが気づいて、声をかけてくれたのだ。「ひさしぶりだね」「げんきにしてた?」などと色々気にかけてくれたが、ちょっとだけ、想像と違ったパーカーの姿に違和感を感じて、生返事をするのに精一杯だった。ほら、たぶん、いつもはスーツ姿でピシッと身を引きしめていたから、それでだと、思う。と、訳の分からぬ言い聞かせを、誰に対してか知らないが、心の中でそう言ってみた。途中、駅のアナウンスが微妙にうるさくて、いつの間にか話を締める雰囲気になっており、岡さんが、「だからさ、うみちゃん。もし、ひつようになったら、また、もどってきなよ」と言った言葉だけが、確かに耳の中に入ってきた。分かりました、そうします、その予定で、でもやっぱり……。頭に色々浮かんできたけれど、とりあえず、短い返事だけを先にして、そのあとに軽い会釈を添えた。なんだか、遠く離れた場所での上京を心配した親が、子に対して、もうかえってこんねって、地方に引き戻すときのような、そんな、妙な心地良さを知った。
明日は七夕だ。これといった予定はないのだが、やはり、あのひとの顔が見たいと思った。空のことは何でも知っているのに、驚く程に短冊が似合わない広瀬 悠斗と、煙草のけむりと、それから、くっきりと入っている二重線のまぶた。それを、燃焼され灰の匂いと一緒に、いつまでも、眺めていと思ったのだ。
七月十三日
ぜんぶ、夢だった。そんなことを言われても、わたしは納得しない。朝。報道で、気象キャスターの広瀬 悠斗が亡くなったと、そう言った。テレビの中にいるひとたちは淡々と説明をしていたけれど、よく理解が出来なかった。なぜだ。なぜ、あのひとなんだ。今日はもう、何をしても同じだ。身体が重いし、少し、胸焼けもしてきた。
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