第一章 風に吹かれて


 日光は別に気にならなかったが、日傘をさしていた。淡い水色のキャンパスに、紫陽花のような花模様がところどころ刺繍で刻み込まれたこの日傘は、今年手に入れたばかりのお気に入りだった。

「あれ、うみちゃん、きょう出勤だっけ?」

 点滅しかけた信号が目に入って、横断歩道を渡ろうとしたとき、前方から男が話しかけてきた。

 少しびっくりしたけれど、

「あ、はい。そうです」

 冷静に答えた。

 わたしを呼び止めたのは、社長だった。たぶん、今、事務所から出てきたのであろう。いつも背負っている小洒落たリュックサックが見当たらなくて、手ぶらだった。

 社長は、わたしの顔をちらっと見たあとに、左手に繋がった小さな女の子、歩香(あゆか)を覗き覗き込んで、声をワントーン上げた。

「ひさしぶりだねぇ、あゆたん」

「た……ちょ、へんな愛称でよばないでくださいよ」

「はは。ごめん、ごめん」

 わたしは歩香を引き寄せた。

 と、その拍子に、小さな身体はバランスを崩して、長い髪が揺れたかと思うと、今朝結んであげたばかりの、解けかかった三つ編みが更に緩んだ。「ごめん、だいじょうぶ?」言いかけたその時、再び社長が変な声を出した。

「あーいやだ。ほんと、ママはこわいねぇ、あゆたん」

「いや、だからそのなまえは……」

 少しムキになっていると、歩香の小さな手がわたしのもとから離れていって、柔らかな感触だけが残り、社長の、大きくてごつごつとした手のひらの中に包み込まれていった。

「……あ」

「はは、そんなかおするなよ。取ってたべるわけじゃないし。ぼくが、事務所までつれていくよ。あづけるんでしょ?」

「……はい、そうなんですが、社長。たった今、事務所からきたのに、おねがいしても、いいんですか?」

「いいよ、いいよ。ずっといそがしかったからね。ぼくも、ひさしぶりに、あゆかちゃんとおはなしがしたいし、ね」

 あ、そこは、あゆたんじゃないんだ、と思いながらも「ありがとうございます」と言って、あとは社長に任せることにした。

 信号が、赤から青に変わった。

 社長が片手をひょいっとあげてみせて、それから、歩香を引き連れて歩き始めてた。

 なんか親子みたい。はたから見たら、どこにでもいる普通の親子のよう。仲睦まじい光景だ。

「あゆか」

 大きな身体に引きつられて一生懸命に着いて行こうとする小さな歩香を、呼び止めてみた。

 少し間が空いたあとに、緩んだ三つ編みを揺らして、振り返り、わたしを見つけると、

「おしごと、がんばってねぇ」

 無邪気に笑った。

 横断歩道を渡りきったあとに、もう一度。小さくて柔らかい両手をパタパタさせて、手を振りながら笑った。

 わたしは僅かにうつむいて、すぐに手を振り返した。

 角を曲がって二人が完全に見えなくなったのを確認すると、わたしもゆっくりと歩き始めた。振り返って、真逆の道を進む。

 珍しく太陽は隠れていて、雨も降りそうにはないけれど。

 あぁ。

 やっぱり、わたしには日傘は必要だ。


 古びた扉をこじ開けると、女性が驚いた表情をして立ち尽くしていた。

「うわぁ、うみちゃん! びっくりしたぁ……。いま、そとの様子をみようとおもっていたの。ほら、きょう、夕方からあめがふるって、いってたじゃない? あ……あれぇ、ちっちゃくてかわいい、あゆかちゃんが、きょうはいないわぁ」

「あ、すみません。えっと、そうですねぇ……さっき、たまたま社長とお会いして、つれていってくれました」

 どれに対しての反応をすれば良いのかが分からなくて、とりあえず社長に会った事だけを伝えた。

「そっかぁ、じゃあ、社長はもうすぐ、くるのねぇ」

「……はい、おそらく」

 よく喋る女性、まいさんに誘導されて、古びた建物の中に身を隠した。

 入ってすぐに、地下階段がある。普段は照明もついていなくて、階段の手前にはぎゅうぎゅうに詰まったゴミ袋が数十個も置いてあるから実際には降りたことがないけれど、ちょっと怖い。

 左に進むと、狭い受付があった。身なりをスーツで統一された清潔感のある男性たちが数人。慌ただしく動きまわっていた。

「おはよ、うみちゃん。じゅうじからホンシのやまださん。そのあと新規で、きゅうじゅっぷんね。えーっと、へやはぁ……にぃまるにだ」

 業務用のパソコンや張り紙と睨めっこをしながら早口で喋ったあとに、隣の倉庫から大きな籠を持ち出して、わたしの足元に置いた。

「ありがとうございます」

 今日は岡さんという男性が勤務していた。見た目だと、たぶん三十代前半くらいの雰囲気だ。岡さんは仕事も早いし、駄弁も少ないし、

「ごめんね。きょう、いそがしくてさぁ……あ、チョコレートがあるから、ひとつあげるね、はいっ」

 お菓子をくれるのだ。

 唯一、わたしを子供扱いしてきて、今年二十七歳になるアラサーちゃんにとってはちょっぴり恥ずかしいことなのだが、なんとなく、嫌じゃないのだ。嫌じゃないし、なんなら、むしろしっくりくるというか……。

 まあ、とにかく、わたしは単純なのだ。

「いつも、ありがとうございます。岡さん」

「うん、いいよ。うみちゃんの餌付けは日課だから」 

「なっ……」

「あ、もうひとついる?」

「い、いります」

 やはり、わたしは単純なのだ。

 荷物が入った大きな籠と、ふたつに増えたチョコレートを手にして、赤い絨毯が敷き詰められた階段を登った。

 籠の取っ手に括りつけられた白いカードに、大きく〝うみ〟と書かれていた。

 ここではみんな、わたしのことをそう呼ぶ。

 本当の名前は知らないし、言わないから。

 だから、この古い建物の中では、わたしは――。

 向井 雨晴(むかい あませ)二十七歳は、ドレスを着て、うみ二十一歳になるのだ。

 髪を束ねて慣れないヒール履き、ひらひらとレースが揺れる白いドレスをまとったら、誰も知らない、うみ二十一歳を演じなければいけないのだ。大げさかもしれないけれど、きっとそうだった。

 コツ、コツ、コツ。

階段を登って、今日使う部屋の前まで来た。

 二階の部屋は、一階の受付に近いからだいぶ楽だ。つぎのお客さんを迎える為、準備をする際にむやみに走らなくて済むからだ。

 ガチャン――。

 部屋の中に入って、灯りをつけた。異国風の壁紙や少し広めのベッド、そして、一番奥にある浴槽までもが、ぼんやりとオレンジ色に照らされて、夕焼けみたいになった。

 空調を調節して、道具を並べたあと、最後に身なりをと整えた。

 備え付けの可愛らしいドレッサー。そっと鏡を覗き込む。

(わたしは、まだ若い)

(わたしは、子ども)

(何も知らない、小さな子ども)

 言い聞かせるように唱えた。

ポーチから赤いグロスを取り出し、ちょうど塗り終わったタイミングで、扉横のコールが鳴り始めた。 

 プルルルル、プルルルル……。

グロスを唇に軽く馴染ませてから、受話器を取った。

 カチャ。

「はい、うみです」

正面にある大きな鏡に、わたしの全身が映った。

真っ白なドレスと、ほんのり夕焼け色に染まった細い手足。首。かんばせ。長い髪がくくられて、照れたように、ちらっと隙間から見え隠れするうなじ。

いかにも、女。

 そこに、ママの姿はどこにもいなかった。


       ✱


 初めて会う男性は、場所がどこであれ少し緊張した。何を考えているのか、とんと分からないからだ。

 男は、一緒に揺れ動くわたしの身体を眺めて、ニヤリと笑った。

 四十代前半くらいの、爽やかで、背が高くて、たくましい体つきだ。

 いかにも男である。

 しかしだ。

 この男もまた、わたしと同様、服を脱ぎ捨てると一瞬にして子どもみたいになる。

 大きな体を小刻みに動かして、何者かに取り付かれてしまったかのように、それをやめないのだ。

 わたしと一緒に揺れて、何度も、何度も。壊れそうなくらい、華奢なわたしの身体がくしゃくしゃになっても、顔色ひとつ変えずに、無理矢理、抜け殻の中に入ろうとするのだ。みんなそう。

 暑い、苦しい、疲れた。みんな同じことを思うのに、やめない。やめてはくれない。歩いたほうが絶対楽しいのに、意地なのか、頑なに親の言うことを聞かない子どもたちみたいだ。

 男が瞬きをした。

 不意に目がかすんだ。

 汗なのか、蒸気なのか、よく分からない水滴が現れて、わたしの眼球を襲った。少しだけ、痛かった。

 男が喋った。

「あつくなってきた。タオル、かりるね」

 やっぱり汗だった……。

 夏はやっかいだ。汗が出るし、メイクだって落ちるし、身体が、異常に疲れやすいのだ。

「きゅうけいする?」

「いや、だいじょうぶ。つぎはうしろだ」

 男に言われた通り、背を向けて臀部を突き出した。なぜか急に足を引っ張られて、

 ドサッ――。

 バランスを崩し、ベッドに頬が打ち付けられた。

 男はそのまま続けた。たくましい身体を大きく揺らし、わたしの中心部まで振動を送った。男は揺れて、

 動く。

 動く。

 動く。

 あぁ、屈辱だ。

 わたしは変な体制のまま、頬をベッドの上に擦り付けられた。

 はぁ、はぁ、はぁ……。

 息が荒くなった。苦しい。

 壁一面に張り付いた鏡に、自分の吐息がかかって、曇った。一瞬だけ前が見えなくなって、そのあと徐々にふたりの身体が現れてくると、不意に、男の顔が気になった。

 爽やかで、たくましい。

 だけど――。

 鏡越しにニヤリと笑った笑みがどこか寂しげな表情をしていて、かと思えば、子どもみたいに身体を小刻みに動かしてわたしの臀部を叩きつけ、また、不気味な笑みをつくった。

 あぁ、そういえば……。

 自分の左腕を眺めた。真っ白な皮膚の上に、複数の赤い斑点だけが妙に浮き出ている。それに伴って、全体がうっすら紫色に染まっていた。

 これは古い傷跡。なぜか赤い斑点だけが残っている。

 そうだ、あのひともそうだった。

 あのひとも、こんな顔をしていた……。

 わたしは左手に力を入れて、そのまま上半身を起こした。

 束ねた髪が落ちてきて、前が見えなくなった。再び足が引っ張られて倒れたけれど、すぐに起き上がった。わたしも一緒にもがく。

「ねぇ……」

 やめろ。やめてくれ。

「うみちゃんの、からだ」

 その名前で呼ぶな。

「うみちゃんのからだは、すごく……」

 その名前でわたしを。

 わたしを――。


(……あませ)


 誰かがわたしを呼んで、我に返った。

「うみちゃん、だいじょうぶ?」

 気づくとわたしはベッドに這いつくばったままで、男は既にことを終えていた。

「あぁ……」

「きゅうに、はんのうしなくなるから、びっくりしたよ」

「すみません……もうだいじょうぶです。ありがとう、ございます」

「なんで、うみちゃんがれいをいうの?」

 あぁ、そっかぁ……。

「わたしへんでしたか?」

「うん、ちょっとね」

 しばらく見つめあって、お互いにくすくすと笑いながら、照れくさそうにして服を着た。

 男は紳士用のジャケットを。

 わたしはドレスを。

 それぞれ脱ぎ捨てた場所に行って、もとの姿に戻った。

「あの……こんなこと、ここでいうのはおかしなことだとは、おもうのだけれど……」

 ベルトの金具をカチャカチャと鳴らしながら、声のトーンを変えて男が言った。

 うしろのワイシャツが若干飛び出していたので、すぐに近寄って、ズボンの中にしまい込みながら生返事をした。

「うん、ききますよ」

 少し雑になったけれど、全部入った。

「ぼくね、ほんとうは、五年前に死ぬはずだったんだ」

「……」

「もともと、じびょうがあってね、再発だったから、もう、たすからないとおもったんだ」

 迂闊だった。あまりにも唐突過ぎて、言葉が出てこなかった。

 驚いて、わたしはそのまま男の話に耳を傾けることにした。

「でも、ちょきんだけは、たくさん余っていてね……。それで、どうせ死ぬなら、ぜんぶ使っちゃおうっておもって、べつにほしくないものまで買ったんだ。家とか、車とか、お酒はあまりすきじゃなかったから、ちょっと高いおにくをたくさんたべて、ぜいたくをしたんだよ」

「すごい……」

「うん。それでね、仕事もやめて、すべて使いきろうって、おもったんだけれど……」

「けれど?」

「一年くらいですぐにあきちゃってね。そしたら、死ぬはずだった年もこして、二年、三年とつきひが経って、けっきょく、ぼくは死ななかったんだ」

「いまは、もうどうもないの?」

「うん、いまはどうもない。なおったみたいだ」

「ふしぎ」

「ほんとふしぎだね。それからだ。なにをしているときでも、生きてるって、おもうんだ。生きてるよかったって、大げさかもしれないけれどね。あ、でも、けっきょく死ななかったから、車は売ってしまったよ」

 

 プルルルル、プルルルル……。


 コールが鳴って、男の話も終わってしまった。

 わたしは最後に男を抱きしめて、

「ありがとう」

 お礼を言った。

 爽やかでたくましい身体が、少しばかり恥ずかしそうに微笑んだ。

「ぼくって、へんかなぁ」

「うん、ちょっとね」

 今度はふたりで、おもいっきり笑った。


       ✱


 事務所の中に入ると、歩香がソファに座って紙パックのジュースを飲んでいた。

「あゆか」

 わたしの声に反応して、

「あ、ママだぁ」

 駆け寄ってきた。

 解けかかっていた三つ編みが、なぜか綺麗な編み込みになっていた。

「あゆか。どうしたの、そのあたま」

「あのね、さっき、おねえちゃんにしてもらったの」

「おねえちゃん?」

 不思議そうに歩香の髪をなでていると、

「あら、もう、おねえちゃんっていう歳じゃないわよ」

 奥の方から荷物を抱えたまいさんがひょいっと顔を出した。この時間帯に事務所に居るということは、おそらく今日は早あがりだ。

「あ〜わざわざ、すみません! こんなに、きれいにしていただいて……ほら、あゆか、おれい言ったの?」

 歩香が「うん、いったよ」というように大きな瞳を細くすると、まいさんが日除けのアームカバーを着けながら割って入ってきた。

「いいの、いいの。わたしが、かってにしただけだから」

「ほんとうにありがとうございます」

「今月もいっしょにがんばろうね、うみちゃん。じゃあ、わたしはさきにかえるわ。おつかれさま。またね、あゆかちゃん」

 そう言って、最後、歩香に手を振りながら、足もとを弾ませて一番に事務所を出ていった。

 歩香もジュースを片手に持ったまま、まいさんに手を振り返した。

 辺りを見回したけれど社長は居ないようだったので、その場に居たスタッフのひとたちに挨拶を済ませて、たぶん空になったであろう紙パックを預かり、ゴミ箱の中に入れて捨てた。

「それじゃあ、あゆかも、おうちにかえろっか」

「うん!」

 ぴょんぴょん跳ねながら、歩香がわたしの手を握った。


 エレベーターに乗って一階のボタンを押した。

 歩香は、

「ねぇママ、きょうのごはん、なあにぃ?」

 と言いながら、クリッとした大きな瞳をこちらに向けた。

「そうだなぁ……きのうは、さかなだったから、きょうはおにくだね」

「やったぁ!」

「あゆかすきでしょ? サイコロステーキ。きゅうももと、たまねぎと、だいこん、おろし、の……」

 エレベーターのドアが開いて、不意に顔をあげた。

 目の前で、中学生くらいの女の子が、震えながら仁王立ちしていた。

 エレベーターを降りて、歩香の手を強く引っ張った。

 それから、その女の子の横を通り過ぎ去ろうとして、つぎの瞬間、

「あませ。むかい、あませ」

 わたしの名前が呼ばれた。

 子どもだけど、低い声。しかも震えてる。

 振り返ってみると、女の子は、わたしと歩香の顔を交互に睨みつけて、得意げな表情をした。それでやっと分かった。

 あぁ、あの子かぁ。

 わたしは気が抜けて、女の子のほうに、一歩、足を前に出して見せた。

「なにか、よう?」

 少し大人げなかったようだ。女の子は意外にも、後ずさりが早かった。

 それにしても、だ……。

 くっきりした二重や、控えめな小鼻。

 丸顔。

 それなのに――。

「わたし、ぜんぶ知ってるから」

「あ、そう」

 なんて醜い。あぁ、醜い。

 わたしは歩香を抱きあげた。

 クリッとした大きな瞳をぱちぱちとさせて、編み込まれた長い髪の毛を揺らしながら、女の子を見つめた。

「ちなみにだけれど、あなたの言うぜんぶが、わたしのぜんぶだなんて思っていたら、それは……安易な考えよ」

 そのまま女の子を、冷たく睨みつけた。

「ねぇ、ママ。このひとだぁれ?」

 歩香が小さな人差し指を外側に向けて、無邪気に言った。

「そうねぇ……単なる、おませさんじゃないかしら?」

 女の子は唇を震わせながら何かを言おうとしたけれど、ただわたしたちを凝視するだけで、何も言わなかった。

 醜女よ、二度と近寄るのではない。

 わたしは、速やかにその場を立ち去った。


       ✱


 断捨離は得意なほうだった。部屋や風呂場の掃除も、昔から日常的に行っていた。多少、歩香の玩具や仕事着でクローゼットの中がかさばることもあるのだが、だからといって、今もそれは変わらない。部屋はいつも綺麗だ。

 しかし――。

 断捨離を好むわたしでさえも、捨てにくい物、あるいは手放せない物というのが、ひとつやふたつ、押し入れの奥底にあるものだ。

 クローゼットを開けて、一番うえ。手を伸ばしても届かないくらいの場所に置いてある、衣替え用の衣装ケース。

 その奥に、人目に触れずひっそりと顔を出している、小さな赤い箱。手のひらに乗せると、ちょうど両手が見えなくなるくらいの大きさ。

 そっと取り出して、蓋を開けた。

 あぁ、やっぱり。

 ひとつづつ密封はしてあるけれど、やっぱり、少し臭う。

 鼻を刺激する、燃焼された、深い灰の臭い。わたしはそれを、おもいっきり鼻の中に吸い込んだ。

 すうぅぅ、はぁ……。

 小さめの密封袋に、少なくて二本、多くて五本くらいの煙草が、不揃いの長さで、それぞれ丁寧に小分けしてある。

 吸ったこともないし、購入したこともない。

 煙草は嫌いだけれど、この臭いは好きだった。


(……あませ)


 まただ。また、わたしを呼ぶ声がする。細くて掠れた優しい声が、わたしの頭の中に入ってきて、それで、あの言葉を言おうとしているのだ。


(あませの、からだはね――)


 もう、終わってしまったというのに。

 なにもかも……。

 わたしは、ところどころ紫色に染まってしまった左腕の赤い斑点を、しばらく眺めた。

 あのひとの声が、聞こえてきた。


(あませのからだ、すごく……きれいだよ)


 あぁ、なんで、そんなことを――。

 きれいな、もんか。

 残った古い傷跡が、酷く、痛んだ。




   

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